« 2012年1月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月24日 (土)

(24.3.24) 読書会資料 井上靖 天平の甍

留学僧の生き様いろいろ
                               ―井上靖『天平の甍』を読んで

                                                           河村 義人

 2000年間の長きにわたって日本に深い影響を及ぼしつづけた国は、中国をおいて他にはない。欧米諸国からの影響など、大きいといってもたかだか幕末以降の200年間の話にすぎない。幕末までの中国と日本の関係は、親子関係にたとえられる。親が子どもを庇護し、物心両面において一方的に与えつづけるように、中国は日本に実に多くのものを与えつづけた。漢字、仏教、儒教、法律、制度……すべて、そうである。
 今回読んだ小説『天平の甍』は、かつて命懸けで仏教を日本に「輸入」しようとした日本僧たちの物語である。

 留学僧たちの多様な在り方
 この小説はむろん鑑真和尚という中国の高僧の苦難つづきの渡航記としても読める。しかし、作者がウェイトを置いたのは、むしろ普照、栄叡(ようえい)、戒融、玄朗、景雲、業行といった日本僧たちの中国での暮らしぶりの方だった、と思われる。以下、彼らが作品に登場した時点でのそれぞれの風貌の描写やその後の足跡を概観しておこう。
 まずは、栄叡と普照。「栄叡は大柄で、いつも固い感じのごつごつした体を少し折り曲げて猫背にしており、顔には無精髭を生やしていることが多く、一見すると四十歳近くに見えたが、まだ三十歳を過ぎたばかりであった。普照の方は栄叡よりずっと小柄で、貧弱な体を持ち、年齢も二つ程若かった。」二人の共通の使命は、中国で伝戒の師を探し出して日本へと招聘し日本に戒律を施行すること。栄叡は終始一貫して使命を果たすことに情熱を傾けるが、普照は最初留学後に学びうる経典の量のことを気にかけている。その栄叡は志半ばにして逝去し、結局普照が栄叡の遺志を継ぐかたちで鑑真和尚とその高弟たちの日本招聘という快挙を成し遂げる。
 次は、戒融と玄朗。「普照と栄叡の乗り込んだ船は、判官秦朝元(はたのちょうげん)の第三船であった。同じこの船にもう二人の留学僧が乗っていた。一人は名を戒融、一人は玄朗といった。戒融は一人だけ発航当日に大津浦から乗り込んできた筑紫の僧侶で、普照と同年輩であったが、大柄な体のどこかに傲慢なものをつけていた。玄朗の方は二つ三つ若かった。玄朗は紀州の僧で、ここ一年程大安寺に来ていたということだったが、普照も栄叡もこの若い僧にこれまで会ったこともなく、またその名を聞いたこともなかった。容貌も整っていて、どことなく育ちのよさがその言動の中に感じられた。」戒融はふてぶてしい印象のある人物だが、唐土において「自分の足でこの広大な土地を歩けるだけ歩いてみるつもり」という抱負を持ち、学業を早々に放棄して托鉢行脚の旅に出る。戒融は後に帰国したという説もあるが、真相は定かでない。一方、玄朗はというと、留学早々ホームシックにかかるような他愛もない若者だが、やがて唐の女を娶り女児をもうけ、ついには帰化してしまう。
 最後に、景雲と業行。「景雲は小さな寺の一室に乗船するまでの日を過ごしていた。二人が訪ねて行くと景雲はその柔和な顔を僅かにほころばせて、隅にあった椅子を与えた。髪に白いものが混じり、一見すると六十歳近くに見えたが、皮膚はつやつやしていて老人のそれのようではなかった。」景雲は30年の歳月を唐土で無為に過ごしたと後輩に語り、日本に持ち帰るものは「この身一つ」と答える人物。シニカルで、謎に満ちた印象がある。「業行は陽の当たらぬ北向きの小さな部屋で机に向かって、筆を執っていた。そこへはいって行った普照には、その部屋がひどく冷たい陰惨なものに感じられた。(略)五十歳近いであろうか。小柄で、脆弱な体がそのまま老い込んでいたので、年齢のほどは確(しか)とは判らなかった。風采はひどく上がらなかった。」この業行は、万巻の仏典を写経し日本へと持ち帰ることを自らに課している。そして長い歳月をかけて写経を終えるものの、それを船で持ち帰る途中で不幸にも遭難し、経典もろとも海の藻屑と化してしまう。

 留学僧たちへの評価など
 これら6人の留学僧に対して、日本への文化的貢献度という観点から甲乙をつけるとすれば、おそらく普照と栄叡の両名が最高の評価を得、結果は残せなかったものの業行の方針とプロセスは高く評価されるだろう。「学業を放擲した」「私欲に走った」「期待を裏切った」という理由で、景雲、戒融、玄朗の三人には最低の評価が与えられるかも知れない。
 この中で個人的に最も親近感を覚えるのは、戒融である。なぜなら、四半世紀前に中国に留学した小生もまた戒融のように放浪の旅に明け暮れたからだ。北は北京から南は昆明まで、西はウルムチから東は上海まで、中国大陸を縦横無尽に歩き回った。シルクロードにも行き、三峡下りもした。1年のうちの半分くらいは旅行していた印象がある。後にも先にもあれほど旅ばかりしていた時期はない。
 長江河口で水平線のかなたにうっすら対岸が見えたと思ったら、それは「中州」にすぎなかったこと。揚子江下流域を船下りしていた時、午睡から目覚める度に眺めた窓の外の景色――濁流と茫漠たる大地と鈍色の空――がほとんど同じだったこと。落日に向かって西へ西へとひた走る汽車に乗っていた時、なかなか日が沈まなかったこと。……大陸の広大な自然に接したことは、おのれの世界観を拡げる上で多少は役に立ったような気がする。

 小生は利用しなかったが、留学当時「鑑真号」という船で帰国する友人もいた。今でも上海-大阪(神戸)間を「新鑑真号」とか「蘇州号」といったフェリーが就航しているらしい。一度「新鑑真号」にでも乗って鑑真や普照らの足跡をたどってみたいものだ。(了)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年4月 »