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2012年1月

2012年1月13日 (金)

(24.1.13) ―保坂和志『プレーンソング』を読んで

 「おれたちの時」を描く
                               ―保坂和志『プレーンソング』を読んで

                                                           河村 義人

この小説は、軽い。「軽い」と言って悪ければ、「垢抜けている」と言い換えてもいい。よく言えば「洗練されている」「ノンシャランな感じ」、悪く言えば「生活感がない」「泥臭さとは無縁」「リアリティが稀薄」などとも言えようか。そのような印象は、村上春樹の初期の小説にも通じるものだ。保坂にせよ村上にせよ、人気の秘密はこの辺にあるのかも知れないが、率直に言って筆者にはどうも物足りない点である。

筆者は以前、保坂の『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)という小説論を読んだことがある。それはかなり示唆に富んだ本で、あちこちに傍線を引いたり付箋を貼ったりして興味深く読了したものだ。『プレーンソング』という小説は、その小説論の面白さには及ばなかった。ジャンルの異なる本を比べるのも何だが。

 作者のねらいと成果

 E・ヘミングウェイは自らの初期短編集に「われらの時代(In Our Time)」というタイトルをつけたが、主人公の「ぼく」は作中で反発をこめて「おれたちの時」という似たような言い方をしている。

思うに、『プレーンソング』における作者のねらいは、80年代後半の日本という時代の特定の雰囲気を描くことだったのではなかろうか。つまり、一種独特の「おれたちの時」を描き出すこと。そう思う根拠はある。作中「ゴンタ」と呼ばれる若者の8ミリビデオの撮影方法にふれて、「ゴンタが撮ろうとしていたのはそういう一つ一つのことではなくて、あのときにぼくたちがああいうことをしていたということの全体なのだろう」(P.169)と書いているが、引用文の最初の「ゴンタが撮ろう」を「保坂が書こう」に置き換えれば、作者の意図を言い当てたことになるだろう。

あの時代にあのような風変わりな若者たちが存在し、独得の雰囲気をかもし出していた。その雰囲気を描き出すことが目的だったとしたら、作者は見事に所期の目的を達成したことになる。それは極めてマイナーな世界だが、そのような世界を描いてこそ真の文学者と言えるので、その点は何の問題もない。しかし、「特殊」を描くことによって「普遍」にまで至り得たかというと、残念ながら疑問と言わざるを得ない。

 描かれた2種類の青年像

 この小説には2種類の若者の姿が描かれている。①アキラ、よう子、ゴンタといった80年代後半当時20歳前後の若者たちと、②ぼく、ゆみ子、石上さんといった当時30歳前後の若者たちの2種類だ。言うなれば、①はポジで、②はネガ。世代を表すマスコミ用語で言えば、①は「新人類」で、②は「シラケ世代」。

「ぼく」の目から見れば、「ぼくたちから十歳も年下になると、全然違うことからいろんなことを考えていくことができるようになっている」(P.181)らしい。「戦争が終わって十年かそこらで生まれ」た「ぼく」らは、「大学に入ると学生運動の残りかす」を体験し、「つねに日本や世界の大状況が出来事の中心にあるように言われてい」た世代だった。そんな中でも「ぼく」や同級生の「ゆみ子」は、戦争や学生運動といった「大状況」からの発想ではなく、日常生活とか個性といった「小状況」からの発想を提唱し実践しようとした少数派だったようだ。

 筆者は世代的には明らかに①の世代に属するが、無いものねだりのように「大状況」を意識するようなところがあり(その傾向は学生時代に内外の戦後文学を耽読したことでもわかる)、心情的には②の世代の多数派に近かったように思う。一応ノンポリではあったが、差別とか不条理といったものには極端に敏感で思想的にはかなり左傾化していた。同世代の島田雅彦が命名した「サヨク」というやつだ。

 「シラケ世代」に属する「ぼく」や「ゆみ子」が「新人類」を先取りしたような存在だとしたら、「新人類」世代の筆者などはさしずめ「遅れてきた青年」のような化石的存在だったに相違ない。アナクロニズム(時代錯誤)もはなはだしいが、事実だから仕方がない。

 小説への違和感

 ところで、この小説には近所の野良猫たち、競馬、映画好きの若者たちといったものが、主人公の関心事もしくは重要な登場人物として現れる。ところが筆者の場合、イヌ派、ギャンブル嫌い、大して映画も見ないといった性格が災いしてか、そういった部分にあまり共鳴することができなかった。

 あと「ぼく」は「アキラ」や「よう子」や「島田」たちと奇妙な共同生活をしているが、筆者は個人的にプライバシーのないそんな状況には到底耐えられない。ゆえにそのような設定にはほとんど興味が湧かなかった。

 それはそうと、筆者も80年代前半に青春を過ごした手前、やはりあの時代には格別の思い入れがある。それを小説の形で表現したいと思ったこともあるが、いまだに果たせないでいる。万が一その小説が将来日の目を見たところで、時代遅れの筆者のこと、完成したその作品が村上の『風の歌を聴け』や保坂の『プレーンソング』に似る可能性はゼロに等しく、おそらく徹頭徹尾泥臭いものだろう。ドジョウの政治ならぬ、ドジョウ文学(笑)まあ、そうやって「おれはドジョウ文学で行く!」と完全に開き直ることができたら、あるいはひょっとして納得が行く青春小説が書けるのかも知れない。(了)

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