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2010年11月10日 (水)

(22.11.10) 読書会資料 山本周五郎 「青べか物語」

2010.11.9

  

「浦粕」はユートピアか

                 ―山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)を読んで

                                  河村 義人

 『青べか物語』と聞くと、真っ先に思い出すのが佐藤信夫の『レトリック認識(*)』(講談社)の一節である。そこにはしたたかな老人である「芳(由)爺さん」が「青べか」という「ぶっくれ舟」を買わないかと「蒸気河岸の先生」たる「私」に持ちかける場面が引用されていた。(P1415)この場面では、奇妙なことに「私」が言ったことは一切伏せられ、「芳爺さん」の言葉しか記されていない。これは修辞学上、「黙説」表現と呼ばれる技法らしく、非常に印象的な部分である。おそらくその意図するところは、「解説」の中で文芸評論家の平野謙が言うように「浦粕町の住人と『私』とでは、一対一の尋常な会話は成立しないことを、まず作者は手法的に提示している」ということだろう。よそものと土着の人々との差をシンボリックに示している、ということだ。『レトリック認識』の著者は、別の観点から「これらの黙説の部分を、あれこれ想像しながら読むという作業は、読者の小さな、しかしたしかな楽しみのひとつである」と書いているが、そのような解読作業は確かに一興と言えるだろう。

 「浦粕」という共同体の住人たち

 本書は一見したところ長編小説のようだが、その実は「小品連作集」である。その意味でフランスの小説家ドーデの『風車小屋便り』に似ている。

 本書には数多くの奇人・変人が登場する。例えば、川で何時間でも粘ってゴミの入っていない水を汲む「水汲みばか」、やおら「人はなんによって生くるか」と真面目に問いかけながら卑猥なゼスチャーをして見せる「兵曹長」。乱暴な言い方だが、こういう「おつむのあったかい人物」は、昔の日本の田舎ならどこにでもいたように思う。私の田舎にもウナミノリョウと呼ばれる人物がいた。リョウは兵隊服姿の太った初老の男性だったが、日焼けした顔にゴマ塩の無精髭が生えていてプロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーのようで子どもの私には怖かったものだ。彼は富山の薬売り同様一軒一軒御用聞きをしてまわり、薪割り、風呂焚きなどの家事手伝いをしては生活費を稼いでいる様子だった。村でも町でも、昔の共同体はけっして彼らを排除せず、社会の一員としておく「ゆとり」があったようである。

 さて、小説の登場人物の話だ。本書に出てくる「したたかな人物」と言えば、冒頭にも記した「芳爺さん」がそうだし、赤子を連れてたくましく生きる捨子の「繁あね」もそう。金をひけらかす客から有り金全部巻き上げてしまう「ごったくや」と呼ばれる小料理屋のの女たちもこの部類だし、商売となると途端にこすっからくなる漁師たちもこの部類である。そういった筋金入りの連中に比べると、船宿「千本」の長や船宿「野口」のおすずといった子どもたちは、したたかな面があるとはいえ、可愛いもんである。「蒸気河岸の先生」にとって小さな情報提供者でもある彼らは、どちらかと言えば「先生」のシンパである。

 あと純情な青年あるいは「お人好し」というタイプの人々もいる。「蜜柑の木」の助なあこや「砂と柘榴」の五郎さんなどは純情な青年と言えるだろうし、浮気の濡れ衣を着せられたままで身を引いた「もくしょう」の元井エンジなどは「お人好し」ということになるだろう。36号船の水夫「留さん」などは「お人好し」兼「おつむのあったかい人物」と言えるだろう。自分について書かれた文章(「留さんと女」)を「家宝」にする、と答えた人物だ。

それ以外に艶聞や性犯罪の担い手たちが大勢いるが、いちいち名を挙げるのも煩わしいので、ここでは全て割愛する。

 とにかく変わった人物ばかりが目立ち、まともな人物(例えば「千元」の若い船頭である倉なあこや17号船の幸山船長や高品夫婦など)は、あまり印象に残らない。

 登場人物の多くには、おそらくモデルが存在したのだろう。しかも創作の度合いは総じて低いような気がする。潤色がほどこされていると言っても、せいぜい「浦安」→「浦粕」「江戸川」→「根戸川」「行徳」→「徳行」という程度の軽いものではなかろうか。

「浦粕」はユートピアか

 文庫解説の中で平野謙は「いわばプラトンふうな理想共和国としての浦粕町」などと書いているが、本当にそうだろうか。結論から言えば、私自身は「浦粕」を理想郷のように見なすことはできない。なぜなら「浦粕」程度の地方共同体なら昔の日本ならどこでもあったし、今でも田舎へ行けば似たような村落共同体は存在するからだ。そんなものをありがたがる気にはならない。

 ユートピアと言えば、やはり魅力ある憧憬の地を指す言葉だろう。「無可有郷」と言うごとく現実には存在しない場所というニュアンスもあるが、「人を惹きつけてやまない場所」「一度は住んでみたい場所」というのがユートピアの最低条件であろう。人を惹きつける要素としては、風光明媚であるとか食べ物が美味であるとかすぐれた伝統文化があるとかそこに住む人々の人情が濃やかであるなどといった事柄が考えられるが、「浦粕」にはそんなものはあまり無さそうである。

 ましてや平野が引き合いに出したような「哲人政治」によって統治された理想国家(プラトン『国家』より)などではあり得ない。それでは、交通手段も文字も不要でありニワトリが鳴く声が聞こえるほど近い隣国にすら人々が行こうともしない平和で理想的な「小国寡民」の国(『老子』より)かというと、そうでもない。ならば、桃源郷のような戦火を逃れた難民の純朴な末裔たちが暮す幻の村落(陶淵明「桃花源記」より)に近いかというと、やっぱり違う。トマス・モアが説く「ユートピア」というのは、いわば非人間的な管理社会だそうだから、これとも全然違う。

 つまり、「浦粕」はユートピアではない、ということだ。

本書が「小品連作集」なら『風車小屋便り』のように珠玉が混じっていても良さそうなものだが、残念ながら本書の中に例えば「星」という作品のような心洗われる「珠玉」は見当たらない。唯一それに近い作品を挙げるなら、幸山船長が初恋について語る「芦の中の一夜」くらいだろうか。総じて、「あまり面白くなかった」というのが本書を読んだ率直な感想である。(了)

*『レトリック認識』……佐藤には別に『レトリック感覚』(講談社)という著書もある。刊行はこちらの方が先。彼は『感覚』の中で豊富な実例をもとに「直喩」「隠喩」「換喩」「提喩」「誇張法」「列叙法」「緩叙法」などを解説し、『認識』では同様に「黙説(中断)」「ためらい」「転喩(側写)」「対比」「対義結合と逆説」「諷喩」「反語」「暗示引用」などを解説している。「修辞学(レトリック)」は西洋では比較的重んじられているが、日本では明治以降軽視されているのが現状。レトリックというと、丸谷才一が『文章読本』(中央公論社)の「第九章 文体とレトリック」の中で大岡昇平の小説『野火』に見るレトリックを詳細に分析しており、これがまた秀逸。

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