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2010年10月 8日 (金)

(22.10.8) 読書会資料 耕治人 「そうかもしれない」「どんなご縁で」

                           2010.10.7
      個別具体的な「老い」
                        ―耕治人『そうかもしれない』再読

                                  河村 義人

 ありふれた言い草だが、日本は今、高齢化社会を迎えている。少子化が進み、その一方で長寿化が進んでいる以上、それは当然の成り行きと言える。高齢者でない者にとって、「老い」とか「老後」というのは何やら抽象的な響きのある言葉だが、高齢者にとってはその日常生活で遭遇する個別具体的な現象のひとつひとつが「老い」ということになろう。

 例えば、慢性化する足腰の痛み。または、入れ歯、補聴器、杖といった道具たちとのつき合い。それらは「老い」そのものであり、アイマイな点がどこにもない。今ここにある痛みであり、身体の一部たるモノ自体であるからだ。

 「老い」の実体はそこかしこにあるが、別の例だと車に「枯葉マーク」(失礼、「もみじマーク」)を張ったお年寄りが制限速度40キロの道を10キロでのろのろ走り、後続車からクラクションを鳴らされること。これも「老い」である。クラクションを鳴らした車のドライバーをにらみつけ、逆切れしてクラクションを鳴らし返すこと。これも被害妄想の「老い」。ついでに言えば、そのような車が高速道路を誤って逆走してしまうこと。この危険行為もまた「老い」のなせる業である。

「命終三部作」のあらすじと主調低音

 さて、今回のテキストである耕治人(こう はると)の「そうかもしれない」と「どんなご縁で」といった短篇は「現代日本の老人文学が到達した一つの頂点を示す作品」と言われる。そう言ったのは川西政明という文芸評論家で、出典は耕治人の短編集『一条の光・天井から降る哀しい音』(講談社文芸文庫)の解説(「ある受容のかたち」)の中である。(「老人文学」とは、奇妙なネーミングだ。この違和感は大事だと思う。)ちなみに、老人性痴呆症にかかった妻の病状の進行順に作品を並べれば、「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」となる。本多秋五という文芸評論家は、この三作を「命終三部作」と命名している。

 「天井から降る哀しい音」では、脳軟化症(=脳梗塞)となり老人性痴呆症の症状を呈しはじめた80歳の妻の行状が語られている。(ちなみに夫の「私」も80歳。)まず、金銭感覚が麻痺し、満足に買い物ができなくなる。次に、料理に失敗し、鍋をいくつも真っ黒に焦がすようになる。炊事の最中にボヤを出し、ついには市の福祉課の人に台所の上に火災報知器を取りつけてもらうことになる。表題の意味するものは、その警報器の悲しげな音なのである。この小説の場合、老夫婦の「老い」を物質化したものが、黒焦げの鍋の山であり、頼りない音を出す警報器となる。

 「どんなご縁で」では、症状の悪化した妻に対する介護生活の様子が詳細に描かれている。具体的に言えば、妻が洗濯という行為ができなくなる顚末であり、その妻を「BMホーム(養護老人ホーム)」という施設で入浴させることであり、福祉課から家政婦を派遣してもらうことであり、何度も妻の下の世話をしたあげくに「おむつ」を用いるようになる、といった日常生活である。ある晩、妻の下の世話をしていて、ふと妻からかけられた言葉が「どんなご縁であなたにこんなことを」であり、それが表題になっている。妻はやがてその「BMホーム」に入居することになる。

 絶筆「そうかもしれない」では、どうやら喉頭ガンにかかったらしい「私」の入院生活が描かれ、老人性痴呆症の症状がさらに進んだ妻と「私」との交流の様子が描かれている。妻はもはや夫を夫と識別できなくなっており、「この方がご主人ですよ」と付き添いの人が言うのに対し、「そうかもしれない」と「低いが、はっきりした声で」答える。それを聞いた「私」は、ショックを受け、言葉を失う。その時「私」の心を占めるのは、「家内と一緒になって五十年、なに一つ亭主らしいことをしていなかった」という悔恨の情であり、結婚以来困難に対して常に「逃げ腰」だった「私」を批難するどころか黙って矢面に立ちつづけた妻に対する尊敬の念である。

 これらの三部作の主調低音となっているのは、長年連れ添った妻に対する夫の「贖罪」「感謝」「尊敬」の感情であろう。とりわけ夫の「贖罪」意識は鮮明で、まず「妻をこんな姿にしたのは自分だ」という自責の念があり、妻を介護することでその「罪」をあがなおうとしているように見える。また、その介護生活を通して、しみじみと妻への「感謝」や「尊敬」の念が芽生えている。

「私小説」批判

 耕治人の三部作では、老夫婦の平凡な日常生活が淡々と描かれており、とりたてて大事件や大事故が描かれているわけではない。むろん戦争のような「大状況」とも無縁である。文学者の本領は、そんな「大状況」を活写することよりも、ありふれた日常といった「小状況」の中の真実を摘出することにあると思うので、「平凡な日常生活」を描くこと自体には何の問題もない。しかし、三部作にかぎらず、耕治人の短篇を読んでやや不満を覚えるのはどうしたわけだろうか。

 耕治人の小説は、普通「私小説」と呼ばれる。「私小説」という日本独自の小説形態は、明治以降の自然主義文学の流れの中で発生した、とされる。私小説家として有名なのは、葛西善蔵、嘉村礒多、宇野浩二、牧野信一、志賀直哉、瀧井孝作、尾崎一雄、野口冨士男、藤枝静男、耕治人といった面々である。太宰治、梶井基次郎、北條民雄らの作品の一部も「私小説」の印象が強い。最近では、車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)とか佐伯一麦(さえき かずみ)などが「私小説家」と呼ばれる。

 和漢の古典を博覧して一作ごとに創意工夫を凝らした芥川の作品などを思い合わせれば、またはドストエフスキーでも誰でもいいが交響曲のように緻密に構成された長編小説の書き手のことを思えば、作者の身辺雑記に終始する私小説などは怠惰極まりない作品だとも言える。第一、文「芸」の担い手のくせに「芸」がなさすぎる。「小説なんてものは書きたいことを書けばいいんであって、私生活だけを書いたっていいじゃないか。」と居直る私小説家がいるかも知れないが、「君らは、芥川やド氏に比べて志が低いな。」とピシャリと評することはできるだろう。まあ、たまに身辺雑記とか自伝的小説を書く分にはいいが、「著者=語り手=主人公」の小説一点ばりというのは、どうもいただけない……、というのが率直な感想である。

病名について

 ところで、耕治人の妻の病名は、脳軟化症による老人性痴呆症と言われる(文庫解説より)。脳軟化症とは脳梗塞の別名だから、同じ認知症ではあっても彼女の症状はいわゆるアルツハイマー型認知症とは種類が違うようである。
脳梗塞とは脳内の血管がつまる病気で、脳内の血管が切れて出血する脳出血とあわせて「脳卒中」と呼ばれる。認知症は、大雑把に言って、

① 血管性型認知症
② レビー小体症
③ アルツハイマー型認知症

などに分類されるらしいから、耕治人の妻の場合はおそらく①に相当するのではあるまいか。最近では、『母に褓襁(むつき)をあてるとき』という介護記録を書いた政治家の舛添要一の母などが、この①の病だったようである。

 痴呆症のことは、最近では認知症と呼ばれることが多い。神経質な見方かもしれないが、このような言い換えに僕は体制側のあざとさを感じる。「痴呆」が差別用語に相当するから、それを避け、わざわざ「認知」などというニュートラルな用語を持ってきたのだろう。これでは事の本質を隠蔽しているとしか思えない。被差別部落(あるいは未解放部落)のことを行政側が「同和地区」と言い慣わすようなものだ。

 言い換えたからといって差別がなくなるわけではない。こういう言葉によるはぐらかしは日本では随所に見られる現象だが、例えば健常者が「ボケ老人」と言えば、それは差別なのか。「ボケ老人」を介護する家族がその言葉を使った場合は差別に当たらないのか。問題は、どういう意図でその言葉を使うか、だろう。差別するという意図で使えば、どんな言葉でも「差別用語」になるのである。逆に、差別意識がなければ、たとえ「差別用語」を使っても差別には当たらない。差別意識の有無を判断するのは確かに難しいが、発言であればその発言者がその言葉を使った時の状況や日頃の言動によって、書かれたものであればその文章の文脈やその書き手の思想によって判断することになるだろう。

ボケた方もつらい

 ここから先は余談だが、家内とはよく「ボケたもん勝ち。先にボケてやる!」と冗談を言い合っている。しかし、本当に「ボケたもん勝ち」かというと、意外とそうではなく、脳科学的には「ボケた方もつらい」という結果が出ているようだ。

 情報の出所は、NHKの「あさイチ」という番組(あるいは「ためしてガッテン」)だが、脳の中の「扁桃体(へんとうたい)」という部分がそのことに大きく関わっているらしい。

 具体例を挙げよう。老人性痴呆症の男性患者のAさん(75歳)は東京在住で、北海道に住む兄のところへ行きたがっている。ところが、出かけようとすると決まって妻に反対される。Aさんが北海道に行きたいと言う度に妻は「お兄さんは今不在」とか「飛行機が飛んでいない」などと言うのである。Aさんはその都度「わかった」と答え、北海道行きを断念するのだが、返事とは裏腹にAさんの脳内の扁桃体にはその都度「イヤ!イヤ!」というストレス(否定的な感情)が蓄積されたらしい。同様のやりとりがくり返されたあげく、Aさんが取った行動は、妻に体当たりする暴力だった。……とまあ、こんな話である。

 つまり、介護する側は当然つらい思いをし、逆に介護される側も見かけによらずストレスをため込んでつらい、ということだ。人間の脳のメカニズムがもしこの通りだとすれば、否定的な言葉はなるべく避けた方がいい、ということになるだろう。これは子育ての場合にも当てはまる。頭ごなしに否定せず、別の言い方をする。先のAさんの妻の応答であれば、「お兄さんに電話したら今は体調をくずして床に臥せっているとおっしゃっているので、お兄さんの具合が良くなってから一緒に行きましょうね。」などと言うのが適当なのではなかろうか。

 私事ながら、このレジュメを書いている最中、生まれて初めてギックリ腰なるものを経験した。1週間ほどで痛みは治まったが、なった当初はちょっと身体を動かす度に「いたたたた!」を連発していた。今ここにある腰痛を感じながら「老人文学」について思いをめぐらせていたわけだが、痛みのおかげで相当リアルに耕治人の小説に感情移入することができた。「世の中に偶然はない」と言われるが、ギックリ腰もまたベストタイミング、必然のなせる業だったようである。(了)

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