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2010年7月22日 (木)

(22.7.22) 読書会資料 岡潔 春宵十話

                              2010.7.21
       憂国の数学者
                        ―岡潔『春宵十話』を読んで

                             河村 義人

 藤原正彦と言えば、小川洋子の小説『博士の愛した数式』の主人公のモデルであり、ベストセラーとなった『国家の品格』の著者でもある数学者だが、この人に「国語教育絶対論」(『祖国とは国語』所収)を唱えられたり、藤原の大先輩の数学者である岡潔に「情緒(=こころ)」の大切さなどを諄々と諭されると、ちょっと情けなくなる。
なぜなら、実際に国語教育に携わっている中学・高校の国語教師たち、日本語を云々して本を書いている大学教授たち、文科省の役人たち、それから俳人、歌人、詩人、小説家、文芸評論家といった所謂「文学者」たちが一体何をしているのか、と思うからである。
モチ屋がモチの宣伝を八百屋にしてもらっていいのか、ということだ。

教育の荒廃を嘆く数学者

 そんな個人的な憤懣(ふんまん)はともかく、本書の中で岡先生がおっしゃっていることは、ほとんど当たっている。
試しに、いくつか抜粋し、それぞれに短いコメントを付してみよう。
「すべての成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原理だと思う。」この伝で行くと、「早期教育」などというものは論外ということになろう。
「ではその人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。」孔子が言うところの「忠如(=思いやり)」の大切さを説いている。「思いやり」の心というのは、言葉を換えれば「想像力」のことだ。相手の身になって考える。これは、取りも直さず、想像力を発揮することだ。 

「いわゆるしつけは一種の条件反射で、害あって益のないもの」なるほど動物に芸を仕込む「調教」ですな。
「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。」(以上「春宵十話」より)うーん、一本取られました。藤原正彦もしばしば情緒の大切さを説くが、そこには憂国の数学者としての先達である岡先生の影響が認められる。 

「師弟は互いに敬愛すべきであって、大自然の子を畏敬崇拝できない者は小学校に師たるの基本が欠けている」確かに自然は「偉大なる教師」だから、人間の教師などはその足もとにも及ばない。身のほどをわきまえ、「偉大なる教師」とその弟子たちに対して謙虚な態度で臨む。人間の教師にとっては、その姿勢が肝要であろう。 

「何よりも大切なのは教える人のこころであろう。」(以上「日本的情緒」より)小学校の教師が教え子に与える影響力というのは絶大で、その意味ですこぶる責任重大である。その責任の重さたるや、全く中学や高校教師の比ではない。大学教授なんか屁みたいなもんだ。岡先生の言う通り、「こころ」の豊かな徳のある人間を小学校の教師に充てるべきなのだが、はたして実態はどうだろう。

岡先生の深さ

 でもまあここまでなら、大して驚くには当たらない。発言内容も常識の範囲を出ないし、格別のオリジナリティも認められない。岡先生がすごいと思うのは、次のような発言である。
「宗教と理性とは世界が異なっている。簡単にいうと、人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先へ進むと宗教の世界へ入ってしまう。そんなふうなものではないかと思う。

 ……人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質ではなかろうか。」(「宗教について」より)岡先生は、戦時中は数学の研究、つまり理性の世界に没頭し、戦後は「生きるに生きられず、死ぬに死ねないという気持ち」で宗門をくぐったと言う。そんな自らの体験と思索に裏打ちされた意味深長な言葉だといえよう。

 「…智力の光はたいていの人についていえば、感覚、知性、情緒の順序で上ほどよく射しこみ、下には射しにくい。一番下のこころの部分は智力が最も射しにくく、日光に対する深海のようなありさまになる。この智力が射さないと存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって、手近に見える外界や肉体はたしかにあるが、こころなどというものはないとしか思えなくなる。かようにして物質主義になるのである。」(「日本的情緒」より)物質主義社会が形成されるしくみを見事に説明した一節。拝金主義というのは物質主義の一種だが、このような感じ方や考え方がいかに皮相なものであるかが、この説明でよくわかる。

 「何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持ちが理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。」(「一番心配なこと」より)「理性の実体」とでも名づくべき一節。ドキッとするほど深い一言。

「今でも一番深いのはシューマンで、フィヒテの哲学に並ぶものだと思っている。ただ、シューマンにしろフィヒテにしろ、本当に深いと思うものは幾分退屈だということも事実である。」(「音楽のこと」より)「本当に深いと思うものは幾分退屈」という指摘。これにもドキッとさせられた。

 岡先生は、文学では芥川、漱石、芭蕉がお好きらしい。とりわけ芥川と漱石は、相当深く読み込んでいらっしゃるようだ。上記の寸鉄人を刺すようなさりげない一言は、「侏儒の言葉」や「或阿呆の一生」における芥川のアフォリズムにも似て実に印象的である。

 それから仏教の素養も相当あるようで、「真智」「妄智(=分別智)」「邪智(=世間智)」などといった仏教用語を使った説明もあり、また曹洞宗の開祖である道元禅師の代表作『正法眼蔵』への言及も散見される。文化人類学者の岩田慶治には文脈とは無関係にやたらと『正法眼蔵』を引用したがる悪癖があるが、岡先生の場合は要所要所でポロッと出る感じで、ほとんどイヤミはない。

 そう言えば、岡先生は自伝『春の草 私の生い立ち』(日経ビジネス人文庫)の中で、俳人の松尾芭蕉を詳しく調べることによって「純粋な日本人」というものの輪郭がわかり、道元禅師の『正法眼蔵』上巻を精査することによって「自分は純粋な日本人であるという自覚」が得られた、と書いておられる。

 「調和の精神」ということ

 岡先生は、アンリ・ポアンカレ―の「数学の本体は調和の精神である」という言葉を引いて、それは「真の中における調和」であって芸術のごとき「美の中における調和」ではない、とおっしゃる。しかし、両者には「調和」という共通点があるため、芸術に親しむことによって数学の本質を洞察できるそうだ。
 数学に関しては、微分積分辺りで躓いてしまったので大きなことは言えないが、この「調和の精神」というのは極めて重要な概念だと思う。自然との調和、外国との調和、他人との調和……、われわれが「和」の国に生まれたのは、おそらく偶然ではなかろう。

 「和」とは「調和(=ハーモニー)」のことであり、「日本」なり「日本語」も意味する。この国名の意味は、日本人が人類の中で将来的に果たすべき役割を示唆しているような気がする。CO2排出規制でも六カ国協議でもパレスチナ問題でも何でもいい、日本人は様々な局面で進んで「調停者」「取りまとめ役」を買って出るべきではなかろうか。「調和の精神」を実践するわけである。それにはまず自らが率先垂範してその資格を得るところから始めなければいけない。

 やや脱線してしまった。数学者の話に戻る。私は常々日本の音楽家には文才がある人が多いと思っている。團伊玖磨、芥川也寸志、岩城宏之、中村紘子、……。最近では、バイオリニストの高島ちさ子などにもそれを感じる。これと同じようなことが、どうやら日本の数学者にも言えているようである。

 岡潔、矢野健太郎、広中平祐、藤原正彦。岡潔のエッセイというのは、含蓄の深い点が『パイプのけむり』シリーズで知られる團伊玖磨のそれに似ている。私は團伊玖磨のエッセイが大好きだから、自ずと岡潔のそれも好ましく感じた。「憂国の数学者」という点では、藤原正彦なども最近はだいぶ岡先生に似てきたが、岡先生のしみじみとした「心配型」の「憂国」ぶりとはちょっと違うようだ。

 それにしても、最近では岡先生や團先生のような深みのある文章の書き手が少なくなってきた。嘆かわしいことである。(了)

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