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2010年6月16日 (水)

(22.6.16) 読書会資料 中嶋敦 名月記

                      2010.6.15
  
   かえって新しい中島文学
                       ―中島敦「山月記」を何度目かに読んで

                                  河村 義人

 例えば、「子曰学而不思則罔思而不学則殆」という漢字だらけの白文(=古代中国語)をいくつかの特殊な記号や約束事によって「子曰く、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」などと読み解く日本独自の「漢文」は、つくづくすぐれた翻訳技術だと思う。それは翻訳にしては珍しく独得のリズムや格調高い文体を備えており、原文とは別個の「創作」の域にまで達している。「漢文」は、日本人が世界に誇りうる発明の一つ、と言っていいだろう。

 失われた伝統に対するノスタルジー
 かつてのヨーロッパの知識人たちにとってラテン語で書かれた古典がそうだったように、昔の日本の知識人にとって漢詩文は教養の源であり、かつ共有の知的財産だった。一例を挙げれば、幕末、長州藩士である高杉晋作が異国の都市・上海でシナ人たちと意思疎通ができたのも漢詩文の知識のおかげであった。彼は即興の漢文で当時のシナ人たちと筆談したのである。日本の知識人に漢詩文の素養があったと言えるのは、おそらく明治時代までだろう。近代化(=欧米化)の影響で、漢詩文の素読などという日本の古き良き伝統は今やすっかり廃れてしまった。中島敦の「山月記」などを読むと、僕などは日本人の失われた「伝統」に対するノスタルジー(郷愁)を覚える。

 若者は「山月記」をどう読むか
 しかし、そんな「伝統」とは殆ど無縁の今の日本の若者などが「山月記」を読む場合、その「漢文調」の文章は、かえって斬新なものに見えるかも知れない。彼らにとってそのような文章との出会いは、一種の「未知との遭遇」だからだ。

  隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略(かくりゃく)に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

 中島敦は、いわゆる「私小説」の作家ではなく、古代ペルシャ、中国古典、南方の島々の風俗といった様々な引き出しを持った小説家だったが、その作品の中で最も印象的なのは、やはりこのような「漢文調」の文章だろう。難読の漢字が多く、漢文独得の言い回しも多いため、これを初めて読む若い読者はきっと驚くに違いない。しかし、読み返す度に、その文体の歯切れの良さ、簡にして要を得た文章の格調の高さに少しずつ魅了されていくのではあるまいか。
 もっとも、エッセイストの群ようこは、『中島敦全集2』(ちくま文庫)の解説(「中島敦がこわい」)の中で先の「山月記」の冒頭の一文を引用した後で、

という文章をみ、頭がくらくらしてきた。とにかく難読漢字は出てくるし、本文には漢詩まで登場しているので、ぱらぱらとページをめくっただけで、
「これは私の手にはおえない」
  とそれっきりにした覚えがある。
  授業で「山月記」は習ったけれども、私は聞き流しているだけだった。虎が出てきて最後に月にむかってほえるという部分だけを覚えていた。とにかく格調が高いという印象しかなかった。たとえていうと、目の前に荘厳な、虎の絵が描かれた金屏風がどーんと広げられた感じ。何の知識もない私に、
  「この屏風の感想を述べよ」
  といわれているような気分だった。とにかく、ただ、
  「おーっ」
  と圧倒されたとしかいいようがなかったのである。

と正直に書いている。おそらくこれは「山月記」を教科書で読んだ若者の大半の声を代弁しているのだろう。まあ、それはそれで構わない。感受性の鋭い青春期に、馴染みのない異質なもの、それも極めて硬質なものと出会った、という体験が重要なのである。

「山月記」は面白がって読むのがいい
中島敦の作品には難読漢字が多いという話はすでに述べたが、例えば短篇4編を収めた新潮文庫の『李陵・山月記』は200頁にも満たない本だが、驚くことに語釈の数は500に近い。こんなに語釈の多い小説集は、芥川龍之介のそれか田中康夫の『なんとなくクリスタル』くらいなものである。
しかし、そんなコケおどしみたいな意匠に惑わされることはない。「山月記」あたりは、要はトラのような心を持ったヒトがトラの形となってしまう変身譚と読めば足りる。変身譚と言えば、ある青年が巨大な毒虫へと変身するカフカの「変身」やガーネットの「キツネになった婦人」が有名だが、そんな小説を読んでいない読者でも狼男や仮面ライダーなら知っているだろう。日本の昔話の「つるの恩返し」だって立派な変身譚である。そういう不思議な話として面白がって読めばいいと思う。
中には、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のはざまに揺れる芸術家の永遠の矛盾を描いた作品などと評する向きもあるようだが、まあそこまで大そうに言うこともなかろう。

 アニメ漫画のような「名人伝」
 「山月記」は「虎の絵が描かれた金屏風」かも知れないが、「名人伝」という弓の名人の話は今の若者にもウケルような気がする。というのは、その小説にはアニメ漫画のように荒唐無稽なところがあって面白いからである。
 弓の修業を始めた男が、最初に「瞬きせざること」を学ぼうとして訓練した結果、目蓋を閉じることがなくなって、ついには「彼の目の睫毛と睫毛の間に一匹の蜘蛛が巣をかけ」た。次に「視ること」を学ぶことにした彼が一匹の虱を髪の毛でくくって窓に吊るし、来る日も来る日も睨み暮したところ、やがてそれは「蚕」ほどの大きさに見えはじめ、三年後には「馬」ほどの大きさに見え、「占めた」と喜んで外に出ると、何と人は「高塔」に、馬は「山」に、豚は「丘」に、鶏は「城楼」に見え、取って返して「馬」のような虱を射るに、「矢は見事に虱の心の臓を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さえ断れ」なかった、などという話が、まさに「漫画」的な部分である。
 でも、これもあながち「漫画」とは言えない。というのは、先日テレビを見ていたら、バッティングの巧みさに定評のあるプロ野球選手が「調子のいい時は、飛んでくるボールの縫い目が見えます」とか「絶好調の時には、横に来たボールがぼわんとメロンくらいの大きさに見えるので、ただそれにバットを当てるだけなんです」と話していたからだ。現代にも「名人」はいる、ということだ。
 ここではこれ以上例を挙げないが、この「名人伝」の中には他にも「漫画」的な部分がいくつかあるので、探してみるのも一興だろう。

 中島文学に対する評価
 このレジュメを書くために先の『中島敦全集』(ちくま文庫、全3巻)を書棚から引っぱり出してパラパラ頁をめくっていたら、1枚の紙切れが出てきた。「中島敦作品集簡介」と題するその短文は、ある中国人の留学生の友人に中島文学を紹介しようとして20年前に僕が下手な中国語で書いたものだ。その友人はかなりの日本文学好きだったので、帰国する前にはその時手元にあった『別冊1億人の昭和史 昭和文学作家史 二葉亭四迷から五木寛之まで』(毎日新聞社)という作家の写真集を餞別代わりに差し上げた記憶がある。
 中島文学に対する僕の見方は、その当時と全く変わらないので、最後にここに再び訳し直して記しておくことにしたい。

「中島敦は『漢学』に対する造詣が深かった作家の一人です。このため、彼は中国の歴史に取材したいくつかの小説を書きました。例えば、『山月記』『名人伝』『李陵』『弟子』『わが西遊記』などです。
 彼の作品は、梶井基次郎と同様にけっして多くはありませんが、非常に精彩があって格調高いのが特徴です。日本では、いわゆる歴史小説家というのがたくさんいて、吉川英治、山岡荘八、海音寺潮五郎、山田風太郎、山本周五郎、司馬遼太郎などは皆そのような作家です。彼らの作品に共通しているのは『通俗性』です。ところが、中島敦の作品はそれらの歴史小説とは全く違います。中島の小説には、簡にして要を得た特異な文体や深刻なテーマ、もしくは寓意性といったものがあり、それらは全て彼独得のものです。
 日本の現代文学の中で、中島文学は卓越した位置を占めているように思われます。」(了)



山月記」(中島敦)を読んで              2010年6月15日
                                    M・T

●なぜこの本を選んだか?

 この小説は、たまたま娘の高校の参観日の授業で出会い、ついつい引き込まれてしまったというのがその理由だ。その日は8クラスあるうちの3クラスがこの「山月記」をやっていて、それぞれの授業に特徴があって面白かった。中でも積田という先生は、生徒を絶対に指名せず、誰か答えるまで徹底的に待つという方針で、こちらがはらはらするくらいだった。私は先生の問いの答えが知りたくて、わざわざ授業の終わりに再度参観してしまった。
この話は、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という心中の猛獣を飼い太らせた詩人李徴が、己れを損ない、妻子を苦しめ、果ては自分の外形をそれにふさわしく虎に変えていったという話である。高校生という最も自意識の高まる時期に、この小説を取り上げるのはタイムリーだと思うが、この小説の意味を本当にわかるのは、きっとずっと後になってなのではないかとも思う。
ところで、なぜ私はそこまでこの小説にそそられたのか。それは李徴が自分ではないか。あるいは娘もそうではないかと思ったからだ。最近、私は摂食障害の親の会に参加している。そこである母親からこんな話を聞いた。娘はきちんとした食事はテーブルでするが、過食の時は床で食べる。娘が言うには「今の私は獣なの。だから床で食べるの」と。
李徴は、どんどん虎の時間が増えていって、ついには人間でなくなるようだが、摂食障害の患者は、摂食障害の時間がどんどん減っていって治ることになっている。早くそうなってほしいものだ。

●作者の中島敦について

 私は、この小説を読んで、李徴は自分ではないかと思ったと言ったが、本当は誰でも李徴なのではないかと思っている。
私は、どんな家柄であっても、どんな才能に恵まれていても、人間は悩み、その自尊心故に傷つくものだと改めて思った。そんな当たり前のことが、今さらのように腑に落ちるというのもなんではあるが、そうなのだ。それゆえ他人との比較によっては心の安寧を得られず、自分で自分の安寧のもとを探すしかないのだと思っている。
 中島敦は明治42年に生まれ、33歳で亡くなった。「中島家は祖父撫山以来、漢学を家学とした家柄で、敦も父の薫陶、伯父の感化のうちに成人し、幼少から左国史漢に親しみ、明治以降の青年にしては異例なまでの深さで漢学の素養を身に付けた」(日本の文学、中央公論社)と言われている。昭和8年に東大の国文科を卒業し、私立横浜高女の国語と英語の教師として赴任し、その傍ら執筆した。昭和15年ころから、持病のぜんそくが悪化、昭和16年に転地療養の目的で南国パラオに行くが、17年3月に帰国。「山月記」や「光と風と夢」などを発表した。「光と風と夢」は芥川賞候補となり、作家として生きていこうとするが、17年12月にぜんそくの発作で死んでしまう。
 度の強い眼鏡をかけた小男で、どんどん物事を突きつめていく性格で、ついにはぜんそくで血を吐いて死んじゃったんだーー。なんだか可哀そうというのが、私の最初の印象だった。ところが、「ウラ・アオゾラブンコ」というサイトをみると、「トンは明るかった。トンと共にいるとき、トンと話しているとき、だれも彼も、そして彼自身も明るかった。」(釘本久春「敦のこと」昭和34年6月)
 さらに、「中島敦の青春」(http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/atushi.html)では、「中島敦は職員室では最も存在感のある教師で、陽性で活発なリーダーだったというのだ」とある。釘本によると、「中島はいうまでもなく俗物が大嫌いだった。また立身出世欲は、こと文学者、芸術家に関しても、彼の最も軽蔑したところである」という。このサイトでは中島には暗さと明るさの二面性があり、それを小説でも書き分けていると分析している。

 また、「日本の文学」(中央公論社)のあとがきでは、「中島は、文壇人として生活し、小説を書くよりも、横浜高女教師として国語を教え、南洋庁の国語教科書編修書記として仕事をするという市民的、国民的義務を果たすことが「成人」なのだという考えをもっていた。それは日本の文学者の生き方の意識においての問題提起ではないか」としている。

 私は難しいことはよくわからないが、「中島敦の青春」というサイトを信じるなら、彼は短いながら、波乱万丈の人生を歩んだのだなと思う。彼の生みの母千代子は、才気煥発で、夫に飽き足らず、子どもに未練を残さずさっさと離婚した。父は地方回りの中学教員として一生を終えたが、女運が悪く、最初の妻の後、二人の妻と再婚した。ともに、無教養な女で、敦には過酷な環境だったことが彼の暗さの一因だったとしている。釘本に語ったところによると、「いじめられるのが辛いというばかりじゃない。むしろ、若い母が自分に辛くあたるのは、子どもながら同情できたくらいだ。ただ、自分をいじめる時、その母がヒステリーで滅茶苦茶になるのをみるのが辛かった。その人間喪失ぶりをみるのが、こたえた」といっていたらしい。父に対しても、若い妻に迎合するのをみて、反感をもっていた。

●妻「たか」の強さ

 私が一番気にかかるのは、「たか」という妻のことだ。ウラブンコにはこうある。「ある日、今まで自分の作品の事など一度も申したことがありませんのに、台所まできて、
「人間が虎になった小説を書いたよ」と申しました。その時の顔は何か切なそうで忘れることは出来ません。後で「山月記」を読んで、まるで中島の声が聞こえるようで、悲しく思いました。・・・世田谷の病院で、麻酔剤も効かなくなり、注射液がタラタラ流れ出てしまい、背をなでて居た私の胸に、どっと倒れて息を引き取った時、さっきまで苦しみに苦しんでいた人とは思へない、安らかなキレイな顔になりました。フサフサした髪が血の引いた額にかかつてをりました。眼鏡もかけ、生きた人の様に膝に抱きかかへて人力車で家に帰りました。随分軽い身体で本当に弱り切っていたのでした」(中島たか「お礼にかへて」)

 たかは中島が入り浸っていた雀荘に勤めていた。最初は別な女と深い関係にあったが、たかにも言い寄ったという。たかとは大学在学中に結婚したが、入籍せず、横浜高女時代にも呼び寄せず、たかは独りで長男を出産した。最終的にはたかが赤ん坊を連れて上京したが、それでも入籍せず、周囲に独身だと思わせていたらしい。しかし、このたかが作家志望の夫を全力で支えていたことは間違いない。彼の名声を確実にした「李陵」も、たかが、大事に夫の原稿をとっておき、深田久弥に渡したおかげで日の目をみた。妻への態度という点ではこれまでの文学者とかわらないのではないかというのが私の感想だ。それにしてもたかの強さをこそ見習いたい。

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