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2010年5月18日 (火)

(22.5.18) 読書会資料 井上ひさし「ボローニャ紀行」

                                 2010.5.12
  
「ボローニャ方式」に学ぶこと
                       ―井上ひさし『ボローニャ紀行』を読んで

                                  河村 義人

 井上ひさしといえば、私の場合、条件反射的に「ジャナリジャナリとへーブラリ、花の3月マーチましょ」という戯れ歌が浮かんでくる。これは、青春小説『青葉繁れる』の中に見られるものだ。または、「吉里吉里人(ちりちりずん)は眼(まなご)はすんずかで…」といった長編小説『吉里吉里人』の一節も口をついて出てくる。小林秀雄の「モーツアルト」を吉里吉里語(東北弁)に翻訳したら「モジアルト」となり、「第一章」は「でーえっしょ」だったなと、いった不確かな記憶までが蘇ってくる。(この文章を書くにあたって、その単行本を自宅の本棚で探してみたが、すぐに見つからなかったので、結局不確かなままここに記載。)

 「現代の戯作者」井上ひさし
 小説家、放送作家、劇作家、遅筆堂主人、文化功労者、日本藝術院会員、「九条の会」メンバー(平和主義者)……と多数の肩書きを持つ井上だが、私にとっては「現代の戯作者(けさくしゃ)」という印象が強い。その滑稽な風貌といい(失礼)、その軽妙洒脱な作風といい、ユーモラスな作品群といい、まさに「戯作者」の名に恥じないものである。(何かで見た山藤章二描くところの「戯作者」に扮した井上の似顔絵は傑作だった。)

 無類の読書家の側面
 あとは、ムチャクチャ読書家であった点も印象的である。読書家といえば、例えば歴史小説家の司馬遼太郎などは「写真読み」の名人で、本を開いても一字一句目で追うのではなく、パッと開いてカシャ(シャッターを切る音)、パッと開いてカシャのくり返しで、参考文献などに目を通した由。また、ジャーナリストの立花隆などは、全く畑違いの第一線で活躍する科学者たちと対談する際には、机の上に天井に届くほどの本や資料を積み上げて片っ端から読破して準備したというから、尋常ではない。まあ、そこまでしないと専門知識もキャッチアップできず、専門家と対等な議論ができなかったのだろう。彼の「猫ビル」は、そのようにして読んだ本がぎっしりと詰まった書庫である。
 井上ひさしの場合、自宅にある蔵書を故郷の山形県川西町に寄贈した結果、「遅筆堂文庫」という立派な図書館ができたというから、すごいもんである。21年間にわたって寄贈された蔵書は、その数22万冊。むろん鎌倉の自宅にも愛読書や辞書など何万冊も置いていたろうから、四面書架、本だらけの人生だったに相違ない。(ああ、うらやましい。)

 「ボローニャ方式」に学ぶこと
 さて、長い前置きはこのくらいにして、本書の内容に入るとしよう。
 これは、思い入れたっぷりのイタリアのボローニャの紀行文だが、ボローニャという美しい街は、井上にとって長い間憧れの地だったようである。ボローニャに憧れる最大の理由は、そこに聖ドミニコ会の総本山であるサン・ドメニコ聖堂があるからである。聖ドミニコ会のクリスチャンであった井上(洗礼名は、マリア・ヨゼフ)にとって、ボローニャは宗教的理由で特別な場所だったのである。
 それはそれとして、本書で最も興味深いのは「ボローニャ方式」という「文化による街の再生」方法である。この「ボローニャ方式」は、本書の中で何回も手を変え品を変えて出てくるが、「困難にぶつかったら過去に学ぶ」とか「使われなくなった施設でも壊したりしない。改造し修理して、現在と未来のために、再活用する」というのが、どうやら「ボローニャ方式」の基本精神のようだ。
 したがって、使わなくなった公共の建物や土地を無償でボランティアグループや社会的協同組合に提供するのも「ボローニャ方式」であり、利益は地元に戻すという企業倫理(文化)を持つ地元の銀行が財団を作って文化とスポーツと社会的弱者に限定して資金を提供するのも「ボローニャ方式」である。これは記憶に値する素晴らしい方法だ。
 
  過去と現在とは一本の糸のようにつながっている。現在を懸命に生きて未来を拓くには、過去に学ぶべきだ。

著者によれば、これが「ボローニャ精神といわれているものの本質」であり、これが上記の具体的な「ボローニャ方式」を生み出して、「ボローニャは都市再生の世界的なモデルになった」のだそうだ。著者は「未来」と言うと抽象的だが、それを「子ども」の語に置き換えて、彼らを日々見つめ、彼らのためにできることを具体的に考えていくことが出発点になる、という意味のことを書いている。
そう、二世代ローンじゃあるまいし、子どもたちにツケを回すような政治(経済政策)はダメなのである。虎は死んでも皮残すというように、親が死んだら借金が残ったというのでは、あまりにも子どもたちに気の毒である。財産を残すのが無理なら、せめて負債をゼロにしてこの世とおさらばするのが親の務めじゃないかしらん、……などと発作的に思う。予算不足を解消するために国が国債を乱発しているようでは、いかんのである。

私事ながら、著者による日本の銀行批判は耳に痛いものだった。銀行家に対する提言も的を射ていた。「ボローニャ方式」と比較して初めて彼我の違いに気づいたようなしだいである。(了)

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コメント

「ボローニャ紀行」読みました!読む必要性があって読みました。娘さんのマヤさんの目線で読んでみてと云われ、又読みました。マヤさんを知らないので、彼女が書いた本を読んでから読み直しました。「激突井上家に生まれて」だったかな?それと彼の書いた本「聖母の道化師」も読んでみました。
「ボローニャ紀行」は、紀行文にあらず?今後の人類?取りあえずは日本の自治体トップには、必読して欲しいと思う本だと感じました。
どんなことでも“始めた一人”が必ずいる!
『自分なんかに何ができるか?』・・・・そう思って動けずにいる人々と『自分なら出来る』そう思って行動発言する人の違いって・・・・良心を抑えるのは臆病だから?野心が行動を起こす?
自分はどう?と聞かれれば、静観者にあらず、提案者にもなれず・・・

投稿: zunko | 2011年2月21日 (月) 14時54分

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