« (21.7.17) 河村義人 木を抱く、水の音を聞く | トップページ | (21.11.18) 河村義人 「君たちはどう生きるか」書評 »

2009年9月17日 (木)

(21.9.17) 河村義人 読書会記録 「車輪の下」 ヘルマン・ヘッセ

「一発逆転」物語こそ望ましい         
 ―ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』を読む                                   河村 義人  

 ヘッセの『車輪の下』(高橋健二訳、新潮文庫)は、かなり身につまされる小説だった。神学校と進学校の違いはあれ、僕自身も地方のある大学の付属中学で急転直下の落ちこぼれだったので、ハンス少年の悲劇は到底他人事とは思えなかったのである。ハンスの親友だった反抗的な文学少年ハイルナーにいたっては、かつての自分の姿を見るようで、正直なところ正視にたえなかった。青くさい文学少年(青年)というのは、やはり鼻持ちならないものだ。

  ハンス少年に共感できたこと

 僕の場合、ハンス少年に感情移入したのは、落ちこぼれの悲哀だけではない。神学校に入る前の川との蜜月や牧師からの個人教授、それに受験当日の緊張と落胆などもそうだった。なぜなら、僕もまた小学生の頃に夏の川でさんざん泳いだり魚を獲ったりした経験があり、大学受験の前に菩提寺(曹洞宗の禅寺)に通っては和尚と対話したり参禅した個人的な体験があるからだ。

 受験に失敗したはずなのに、ハンス少年は2番という好成績で「州の試験」に合格する。僕にとっても、中学受験の記憶は極めて特異なものだ。生まれてこの方、試験と名のつくものは数多く受けてきたが、その中で中学受験ほど緊張したものはなかった。何しろ緊張のあまり、試験中に何度も手を挙げてトイレに行かせてもらったほどだった。カンニングと疑われかねない行為だが、その時は生理的にどうしようもなかった。答案用紙には何を書いたのか、さっぱり覚えていない。でも、なぜか受験会場の教室の窓から見た青空だけは覚えている。

「落ちこぼれ」て見えたもの

  ハンス少年が入学したのは「シトー教団のマウルブロン大修道院」という神学校だが、現代の読者なら映画『ハリー・ポッター』に出てくるホグワーツのような魔法魔術学校を連想するかも知れない。少なくとも、僕は小説を読みながらしばしばホグワーツの荘重な修道院のような映像を想起したものだ。

 たとえ外観のイメージは瓜二つであっても、両者が輩出しているものは根本的に異なる。片や「聖職者」、片や「魔法使い」、といった具合に。これは何という皮肉だろう。厳めしい神父や牧師たちの代わりが、奇妙な魔法や魔術の使い手たちなのだから。ホグワーツはキリスト教会の神学校のかなり辛辣なパロディとなっている。

 小説の中の神学校は、男子校で校則も厳しく、いかにも窮屈そうだ。これではハイルナーやハンスならずとも息がつまる。脱落者が出て当然の環境である。このような環境は、「落ちこぼれ」にとっては地獄以外の何ものでもない。彼らの苦痛や反抗心は、痛いほどわかる。なぜなら、僕もまた挫折感を抱いた「落ちこぼれ」だったから。

 昔、藤圭子は「〽15、16、17と私の人生暗かった~」と歌ったものだが、何を隠そう、これは僕自身の唄でもある。高校や大学を出たはずなのにまた中学からやり直している夢をくり返し見るのは、その頃感じた苦痛や嫌悪感がトラウマになっているせいかも知れない。

 負け惜しみに聞こえるだろうが、「落ちこぼれ」て良かったと思っていることがある。それは一種のヒエラルキー(上下の階層関係に整序されたピラミッド型の組織)の枠からはみ出したおかげで、「下から目線」という視座が得られたことだ。エリートコースを突き進んでいたなら、おそらく弱者の気持ちなど全くわかろうともしない「上から目線」のゴーマンな若者になっていただろう。屈折した感情を抱きつつ違った角度から人や組織を眺めたことによって、より思索的になり、より想像力が豊かになったような気がする。

 一頃流行った文化人類学の用語で言えば、「中心」にいて見えなかったものが「周縁」に移ったために見えてきたわけである。

 悲劇ではなく、「一発逆転」物語を 疑問に思うのは、どうして作者はハンスを作中で殺してしまったか、ということだ。それも酒に酔った上での事故死というような不名誉な形で。たぶん無垢な魂の悲劇を描きたかっただろうが、小説の結びで主人公にあっけなく死なれては、どうもやり切れない。

  ドイツには主人公の成長発展を中心に描く「教養小説」という伝統がある。そして、この『車輪の下』もその系譜に位置している。どうせ自伝的な「教養小説」を書くなら、負け犬で終わるような救いのない物語ではなく、胸のすくような敗者復活の物語を望みたいところだ。

  仮に僕が作者なら、こんな結末にしただろう。神学校で挫折し退学したハンス少年が、郷里でいったん鍛冶職人となるものの、やがて文学に目覚めて詩人を志し、結果的に小説家として華々しく文壇にデヴューし文学的地位を確立する…。つまり、「落ちこぼれ」による「一発逆転」物語だ。

 ヘッセは聖職者にはなれなかったものの、文学者としては立派に成功したのだから、そのサクセスストーリーがそのまま小説になる。タイトルも『ライ麦畑でつかまえて』の向こうを張って、『車輪の下から這い出して』にすればいい。トリックスター的なシッチャカメッチャカな脇役の友人でも登場させれば、なお面白かろう。ハンスとその友人がボケとツッコミの掛け合い漫才をしたりして。そうすれば、この作品はドイツの『坊つちやん』となった可能性がある。ヘッセにもう少しユーモアのセンスがあったら、とつくづく悔やまれる。(了)


車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ 1906)        
2007年9月16日 A.T

 この本を最初に読んだのは高校生の頃だっただろうか?とても納得できないと思った記憶がある。おそらく私の精神が健康的過ぎたせいだろう。一生懸命勉強した人にはご褒美があるべきだと思っていたのに、どんどん転落していって最後は死んでしまう。せめて、神父でなくても、職人としてそれなりの生活を成就すればいいのに、なんでヘッセは主人公ハンスを殺してしまうのかと不満だった。

 子供を3人育てている今、これを読むと「本当に気をつけないと、子どもの生きる力をつぶしてしてしまう」と実感する。ヘッセがこれを書いたのが29歳。これが自叙伝的な要素をもっていることはよく知られている。ヘッセも14歳で神学校に入学、翌年に脱走して結局はやめてしまう。
詩人になるのでなければ何にもなりたくない」というのがその理由だ。その後、本屋の店員などをしながら独学し、22歳で初めての詩集を出し、作家として認められていき、69歳でノーベル賞とゲーテ賞を受賞する。

 なぜ作家にヘッセを選んだかと問われれば、①ノーベル賞をとったけれど自殺しないで天寿を全うした②第一次大戦も第二次大戦も戦争に反対した③雲を愛して、雲のように自由にさすらいたいという気持ちと、生活者として義務を果たすべきだという2つの考えの間でアンビバレントな精神を持ちながらも創作活動を続けたこと、などが理由である。

 特に、③については、「評伝ヘルマン・ヘッセーー危機の巡礼者」(ラルフ・フリードマン、草思社、2004)に詳しい。本のタイトルにもあるように、次々と身の周りで起こる精神的、物理的危機から逃げないで、それを追及し次の段階に進んでいく姿に共感した。

ヘッセと3人の妻との関係

 
ヘッセには3人の妻がいた。最初の妻はマリーア・ベルヌリ(愛称ミア)という9歳年上の女性だ。ヘッセが27歳で結婚し46歳で離婚している。よくいわれるのは、幼年時代に満たされなかった母への思慕ゆえに彼女と結婚したのではないか。この近親相姦的な夫婦生活がミアにも、ヘッセにも精神病発病のきっかけになったのではないかということだ。

 ヘッセは婚約したころ、ミアのことを「彼女は僕の髭までしか背が届かないが、僕が窒息しそうなほど力強くキスすることができるのだ」と言っている。しかもヘッセの3人の子供はみんなこのミアとの間に出来ている。「ペーター・カーメンツィント(郷愁)」の成功で憧れの詩人となったヘッセは、ミアと農家を借りて初めての自分の家をもつ。しかしここで、ヘッセは「秩序と限界の中に囚われ拘留されているという気持ちになった」と書いている.ミアの病気は結婚後2か月くらいから現れるが、その原因の一つは、「夫は自分といても幸せではない」と感じたからではないかと私は思う。ヘッセもまた精神病になり、40歳の時、ユングの弟子ラングに診てもらい、彼らの深層心理学の影響を受けて「デミアン」を書いたといわれる。

 ヘッセは安定を嫌っていた。いつもジプシーの心を持っていた。しかし、一方で、シュワーベン敬虔主義運動の中心的存在である牧師の家で育てられ、責任感も強かった。その伝統とは「人間の意志は生まれながらに根本的に悪いものであり、まずその意志を打ち砕かなければ、人間は神の愛とキリストの共同体の中に救いを得られない」というものだった。その引き裂かれるような魂の叫びが、作品を生み出す力にもなっている。

 「車輪の下」には、試験に2番で合格する秀才のハンスと、詩人で自由な精神をもったハイルナーという2人の神学生がでてくる。ヘッセの中には、ハンス的な自分とハイルナー的な自分がいて、両者がぶつかり合っていた。「読者が身につまされるのは、自分の中にもこうした苦しみがあるからだ。ヘッセが偉いのはこの戦いを最後までごまかさなかったこと。自分の中にもう一人の自分が現れてどうしようもなくなったら、精神分裂せざるを得ないよ、ということをハンスとハイルナーで見事に表現した」(ヘルマン・ヘッセの文学 佐古純一郎 朝文社 1992)。

 2度目の妻、ルートは20歳年下だった。ミアと別れ、母の呪縛から抜け出して女性のエロスに目覚めたのではという人もいる。ルートについて「突然、山の女王がそこに立っていた。すらりとしなやかな花で、きりっと弾力的、全身赤ずくめで、燃え上がる炎、まさに青春の肖像だった・・・」と描写している。ミアと離婚し、3人の子供をそれぞれ信頼おける人のところに預け、翌年47歳でルートと結婚した。しかし、彼女はヘッセの心情を理解できず、3年で離婚している。

 3度目の妻、ニノン・アウスレンダーはルートより2歳年上で、14歳の時に「ペーター・カーメンツィント」と読んで感動し、ヘッセに手紙を書いて以来の文通相手だった。妹の自殺をきっかけに27歳の時ヘッセに初めて会った。二ノンはドルビンという人気風刺作家の妻だったが、夫は派手な女性関係や仕事にかまけてニノンとは別居していた。再び、二ノンがヘッセに会った時、彼女はヘッセの中に「孤独と苦悩、痛ましい魂の分裂を知り、自分のすべてを彼に捧げ、自分の『精神の故郷』であるこの詩人と一つになることが自分の運命だと感じた」(「ヘルマン・ヘッセ 人生の深き味わい」田中裕1997)という。

 彼らの共同生活は、窓越しに見える部屋に別々に住み、意志の疎通は、ドアのメモという、つかず離れずの生活だったという。54歳で結婚、友人の建ててくれた新居の間取りも居住区は別々だった。二ノンとの共同生活はヘッセが亡くなるまで35年以上続いた。

 ヘッセにとっては、孤独と苦悩が創造のために必要であり、それをそばで静かに見守り、共有することのできる女性でなければ続かなかった。女性も、それが自己犠牲や一方的な奉仕ではなく、自分の人生の完成にもつながると思える人でなければならなかった。わがままだけど、正直で自分の生き方をごまかさないという姿勢が、ヘッセのその端正な顔に現れている。

 日本では、1938年にドストエフスキーと並んでヘッセの全集が発売され、人気を博した。1995年ころから再び見直されるようになり、「人は成熟するにつれて若くなる」や「庭仕事の愉しみ」がベストセラーになった。
 

 私は、自分の心の中にあるrestless(絶えず変化を求める)な気持ちを感じて苦しくなる時、雲をみようと思う。雲を愛したヘッセのように、運命を受け入れながら、自分であることをもう少し続けてみようと思う

|

« (21.7.17) 河村義人 木を抱く、水の音を聞く | トップページ | (21.11.18) 河村義人 「君たちはどう生きるか」書評 »

コメント

さっそく掲載していただいてありがとうございます。自分で載せるのは気が引けるけど、後でこんなことを考えたんだと思えるのはいいことかもしれません。イニシャルですが、MTです。よろしくお願いいたします。

投稿: めいちゃん | 2009年9月17日 (木) 07時57分

この記事へのコメントは終了しました。

« (21.7.17) 河村義人 木を抱く、水の音を聞く | トップページ | (21.11.18) 河村義人 「君たちはどう生きるか」書評 »