2012年11月24日 (土)

(24.11.24) 「乳と卵」  川上未映子

 20121122日 メイコ


読書会のフォルダを開けてみたら、なんと最後に書いたのは昨年の
10月の「僕は12歳」だった。なんだか感想文など書けそうもないと感じたのは、1年以上も書いてないからなのだった。ついでに「おゆみ野ウォーカーズ」というブログも先日、知り合いから「去年の紅葉が最後だぞ!」というお叱りを受けて開けてみると、なるほど約1年更新していなかった。書かなくなると書けなくなるものだと納得した。

 今回、川上未映子の「乳と卵」を取り上げたのは、たまたまブックオフで安く手に入れたというのと、薄くて、皆さんにも時間的、経済的にそれほどご負担にならないだろうと思ったからだ。今までは、これなら書けるというテーマをもって選んでいたのに、今回はそれがないというのでとても苦労している。あと1時間ちょっとでどこまで書けるのだろうか?

 とはいえ、この本は、精神科医の斉藤環が書いた「母は娘の人生を支配する」(NHK出版)の中に出てきていて気にはなっていた。今回読んだ「「六つの星星」の中で、斉藤と川上の対談を読むと、川上未映子もまた、うちとは全く逆ベクトルで母親からの強烈なマインドコントロールを受けている人だった。ちなみに斉藤環は娘の入院していた佐々木病院の勤務医でもあったので、この本を読んでとても娘に申し訳なく思い、娘の主治医で病院長でもあった佐々木先生に「母親の出来ることがあったら何でも教えて下さい」と聞いたら、すげなく「何にもないです」と言われたのだが、そのことの意味をやっと今、理解しているところだ。

 さて、本のあらすじはきっとMさんが教えてくれるので私は、私がこれに関する本を読んで感じたことをとりとめもなく書いてみたい。できれば言文一位で(川上未映子のように・・・)。でもそうしたら、Mさんが嫌がるかもしれないけれど。でも一言だけ、私はこの言文一致は抵抗ないです。それから、妙に笑える部分がいくつもありました。

 例えば、ぱっとめくってP41の「えっ、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で言ったのだったかして、・・・・中略・・・・胸を大きくしたい女の子はそれに対して、なんだって単純なこのこれここについているわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってもんにわざわざ結びつけようとするわけ?もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由しているんならあなたのその考えだって男性精神ってもんを経由してるってことになるんじゃないの・・・・」

 ストーリー上では終わりごろに母と娘で卵をそれぞれ自分の頭にぶつけるというシーンがある。離婚した夫に会って酔っぱらって帰ってきた母親が娘に

「あんたは、わたしと口がきけんのやったら、どうでもしい、どうでもしたらええよ、ええわ、と云い、ひとりで生まれてきてひとりで生きてるみたいな顔してさ、と昨今の昼ドラでもなかなか聞けぬようなせりふを云って、なあ緑子、わたしはいいねん、わたしはええよ・・・・・」。これに対して娘は、豊胸手術をしようとする母親に、「ほんまは、なにがしたいの、痛い思いして、そんな思いしていいことないやんか、ほんまはなにがしたいの、と云って、それは、わたしを生んで胸がなくなってもうたなら、それをなんで、お母さんは痛い思いまでしてそれを、・・(中略)・・・わたしはお母さんが、心配やけど、わからへん、し、ゆわれへん、し、わたしはお母さんが大事、でもお母さんみたいになりたくない、そうじゃない、早くお金とか、と息を飲んでわたしかって、あげたい、そやかってわたしはこわい・・・・」。

この会話の間に、2人は自分の頭に生卵をぶつけ続けるのである。

読書会の前までは、このシーンの意味がわからなかったが、Kさんから「ほんまのことって何?」と問いかけられて、読み返してみたら、少しわかる気がした。

娘は「私は生まれてきてよかったのか?お母さんは私が生まれてきて幸せなのか?」逆に、母は「娘は私の子供として生まれて幸せなのか?」という問いに対して、確認したくても怖くてできない。相手のことを慮ってこの場に及んでも、相手の頭に卵をぶつけるのではなく、自分の頭にぶつけることでしか不安や怒りを表現できないという哀しさをわたしは感じた。

最後に母親が「絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことってな、ないこともないこともあるねんで、・・・」に対して、娘は「そうじゃないねん」を繰り返し、母親は娘の背中をさすり続けてこのシーンが終わる。


「ほんまのこと」が何を意味するのかはわからない。ただ母と娘がたまたま母体を介して分離したのだけれども、その組み合わせで幸せかどうかということは問うても仕方のないこと、それ以外の関係を試すことも比較することもできないから。むしろ今あるこれがほんまのことでそれ以上でもそれ以下でもなく、それが与えられている。誰から?なにから?もし信じるなら神からではないか。

 これが芥川賞にふさわしいのかという点についても、よくわからない。芥川賞自体が最近は活字離れを少しでも食い止められるならなんでもいいという感じさえ受ける。年に2回もあるし。かつて、中島敦が芥川賞候補になって、ようやく文筆で生計を立てる気持ちになったと記憶しているが、なんだか最近の芥川賞は、モーニング娘とかAKB48とかみたいに、隣にいそうなお姉さんがオーディションで受かって、機会を与えられ、どんどん出世していくけれども、卒業した後はその人の実力次第って感じに似ている気がする。

文体が樋口一葉に似ているといわれているが、これは彼女が二十歳の時、松浦理英子の現代語訳した「たけくらべ」で出会って一気に読んだことから影響を受けたらしい。「六つの星星」の中で松浦との対談に書いてあった。当時川上は日本大学の通信講座で哲学を勉強していた。

 川上未映子の著者紹介には、1976年大阪府生まれ。「夢みる機械」(2004)「頭の中と世界の結婚」(2005)などのアルバムをビクターエンタテイメントより発売。2006年、随筆集「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(ヒヨコ舎)2007年「わたくし率イン歯――または世界」で芥川賞候補、坪内逍遥大賞奨励賞。2008年「乳と卵」で芥川賞。2009年詩集「さすわさされるわそらええわ」で中原中也賞。2010年「ヘヴン」で芸術選奨文部科学大臣新人賞。――とある。

 大阪万博の時、まだ生まれてもいなかった彼女がとんとん拍子で成功していくのを嫉妬深くみてしまう。だいたい学歴もまったく書いてないというのがカッコよすぎるでしょう。実際、大してないというのももっとすごい。かつてぴあ総研で一緒に仕事をしていた大学教授によると、「結局はプロデュース次第なんだよ。ゴッホだって、ずっとあれがいいと言い続けている人がいるから成立してるんだ」といった言葉を思い出す。彼女がユリイカの編集部に電話して原稿を持ち込もうとしたとか、音楽ブロデューサーと結婚して、アルバムを出したとか、いろいろ書いてあったが、行動しようと決めた勇気とそれを続けていけるプロデュース能力(本人とその周辺)がすごいのだろう。


 魔法飛行」という彼女のブログを集めたような本の中で、「締め切り前の一晩で
50枚の原稿を書いてもって行ったら、喜んでもらえた」とか書いてあるのを読むと「何それ!自慢?」と思ってしまう。けれども、どっかの食堂で本当にまずいものを食べた時、「いつから私はまずいものとまずい思うようになったのだろう」という文があり、かつて貧しかったころに、食べ物があれば幸せだった時代があったかのように書いてあるのを読むと、かなりの苦労をしたことが垣間見える。

 特に母に対して、彼女が稼いだお金を家に入れても、彼女はホステスをしていたようだが、一銭も母は自分のためには使わなかったという。それゆえ、彼女は今でもエステやマッサージ、外国旅行も行くのに罪悪感があるという。それは先にお母さんが行くべきだと思うのだという。

 電気も水道も止められたと想定される文章の中では、お母さんが「探検にいって来ます」と言って、学校から水を持ってくる話や、電気がこなくなった部屋で、懐中電灯をもってきて怪談噺をしたとか、お母さんの子供を守る力のようなものをみせつけられていて、文句のいいようがない環境で育ったらしい。「勉強しなさい」「どうなりなさい」の一言もなく、「みえちゃんはえらい」「みえちゃんはかしこい!」と言われ続けたという。「自己中心的ならまだ反発できたけれど、一切ないところがずるいというか・・」と川上は話している。「いつになったら自分が楽しむってことができるか?」との斉藤の問いに「母が死んだらでしょうか。いや、それも違いますね。自分が死んだらですね」と答えている。

 なら、父親に対して怒りがあるのかといえば、父親に対しては今だに敬語でしかしゃべれないという。否定的なことを言いたいけれど言えないから夢の中で一度だけ父親に言ったことがあるという。それでも「父親が子供のことを本当に愛しているのはわかる。それは子供のためであればこの人はすぐ死ねるというのが、その存在からにじみ出ているから」というのである。一体何者なのだろうか、川上の父親というのは?これについては調べがついていない。

ただ、「ヘヴン」の中で、主人公のいじめを受ける男の子と女の子のうち、女の子がいつも汚い格好をしていて、クラスの同級生から殴られたり、けられたりしているのだが、その子が汚くしているのにはわけがある。それは、離婚した父親を忘れないためだ。働いても働いてもお金を稼げず貧しいままで、母親は業を煮やして離婚する。離婚した母親は金持ちの男と再婚して、立派な家に住み、その彼女もいっしょに暮らす。だけど彼女は、なんにも悪くない自分を愛してくれるやさしいお父さんを忘れないために汚いままでいることを決めているというストーリーになっている。

 そこで、少女は母親に聞く。「なんでお父さんと結婚したの?」「「かわいそうな人だったから」。少女は母に対して怒りを抱く。「かわいそうと思うのなら、なんで最後までかわいそうと思い続けて一緒にいなのか」と。川上の父親像というのはこのあたりにあるのかと思ってしまう。

 私は川上未映子に才能があるかどうかわからないけれども、彼女がとても貧しいとか辛いとか寂しいとかそういう人の気持ちをよくわかっていて低い視座から物語を書いていることにとても共感を覚える。

対談集を読んでいると、お姉さん格の松浦理英子や多和田葉子や生物学者の福岡伸一に対しては媚びているくらい低姿勢で、哲学者の永井均と「ニーチェ」について語りあってるところはむかついた。よくわからないうえに、わかった同士でマニアックに盛り上がっているように感じたからだ。

時間がきてしまった。私としては彼女がこれからどういうものを書いていくのか、見守りたい。

 

 

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2012年6月23日 (土)

(24.6.23) 文学入門 柴田翔 去れどわれらが日々 

     60年代の青春文学
                               ―柴田翔『されどわれらが日々』を読んで

                                                           河村 義人

 大江健三郎に『遅れてきた青年』という長編小説があるが、そのタイトルには「幼すぎて先の戦争に従軍できず、戦後に青年期を迎えた者」という意味合いが含まれている。学生時代、僕も時々自分が「遅れてきた青年」だと感じることがあった。遅れた、と感じたのは「先の戦争」に対してではない。60年安保、70年安保といった節目を持つ日本の学生運動に対して、である。時代を蔽うような共通体験。そういったものへの憧れがあった、と言ってもよい。しかし、幸か不幸か、80年代に青年期を迎えた僕らに、そんなものはなかった。

小説の時代背景
 この小説は、大雑把に言えば、60年安保闘争の頃を時代背景としている。もう少し正確に言うと、「1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協)」で、共産党が現場の活動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行った」(ウィキぺディア「日本の学生運動」より)頃である。当時、共産党の強い影響下にあった全学連(全日本学生自治会総連合)は、その決定を境に徐々に党と距離を置くようになり、やがては党から除名された学生たちを中心とするブント(新左翼共産主義者同盟)が全学連を牛耳ることになる。
 1960年の安保闘争においては、この全学連が運動の中心を担い、当時東大文学部の学生だった樺(かんば)美智子がデモに参加して死亡するという事件が起きた。

 作中の若者たちの姿
 そういう時代背景を持つからと言って、この小説の主人公は、学生運動の担い手たち、つまり政治青年たち、というわけではない。確かに活動家も何人か登場するが、彼らは単なる脇役にすぎない。主人公の研究者・大橋文夫やそのフィアンセの佐伯節子をはじめ、小説に描かれた若者の大半は、サークル活動、自由恋愛、研究生活などにいそしむ今も昔も変わりないごく普通の学生たちである。とりわけ主人公の大橋が語る学部時代の思い出話などを読むと、村上春樹の小説の登場人物かと錯覚するような性的に無節操な描写などもあり、いささかウンザリした。「最高学府の学生の生活がこれかいな」と。
 しかも、こう言っちゃ何だが、彼らが語る結婚観とか人生観というのは非常に観念的だ。結婚など未経験だから当然と言えば当然だが、それにしてもコムツカシイ表現をしたがる。「おじさんなら、そんな言い方はしないね」としばしば思ったものだ。たぶんもっと具体的に、やさしく話そうとするだろう。あんたら、コムツカシイ表現をふりまわして結婚や人生が分かったつもりでいるようだが、実際はそんなもんやないでえ。酸いも甘いも噛み分けた中年になったら、実感としてわかるだろうよ。あんたら「世間知」というかも知れんけど、と。
 主人公の大橋、ヒロインの節子、活動家だった佐野(後に自殺)、研究者の曾根や宮下、大橋の子を孕んだまま自殺した梶井優子、大学教授のFにその愛人だった横川和子、男性恐怖症の福原京子、活動家の野瀬……。本書に描かれた青春群像の中で魅力的な人物を選び出すのは難しい。強いて言えば、思慮深く知的な印象のヒロイン・節子くらいなものか。

 最も重要な場面
 ところで、この小説の中でもっとも重要な場面は、どこだろう?おそらくそれは幼き日の大橋文夫と佐伯節子が病院でもある大橋の家で積み木遊びをする場面だろう。自分の塔を壊すまいとして節子に向かって「馬鹿!」と怒鳴る文夫。節子がそこに見たものは文夫のエゴイズムに他ならず、それは身勝手な告白をする大人になった文夫の姿に重なるものだった。そんな話を聞かされたところで、「まあ、この人は何て正直な人なんだろう!ステキ……」なんて思う恋人がいるはずがない。興ざめして去っていくのがオチだろう(実際、そうなっている)。文夫は、それこそ「馬鹿」な告白をしたものだ。

 別れた理由
 節子は手紙によって大橋と別れる理由をあれこれと説明しようとし、大橋は大橋で自分のプライドを傷つけない程度に節子が取った行動に理解と同情を示す。まあ、お互いウソはなしにしよう。節子の方は、「イヤだからイヤ!」、それでいいではないか。屁理屈などこねる必要はない。生理的嫌悪感がマックスだ、と言えばいいのである。大橋の方も「何だあんなヤツ、エラくなって見返してやる!」くらいに思っていればいいのだ。偽善者ぶるのはやめよ。もともとお前のエゴイズムが別離の原因なんだから。尊大に行くなら、とことん尊大に行け。相手を思いやるなら、とことん思いやれ。中途半端は良くないぞ……。とまあ、おじさんは、つらつらそんなことを思ったしだいである。

 本書は、60年代、70年代と長い間若者のバイブルだったそうである。筆者の学生時代でもこの小説を読書会のテキストに選ぶクラスメートがいた。しかし、今でもこれがバイブルだという人はほとんどいないだろう。若き日に本書を愛読した人でも、年を経て再読する時、「何だこれ!」と幻滅を覚えるに違いない。なぜか。その理由は、そこに描かれているのが、世間知らずで頭でっかちの若者の姿だからだ。学生運動の嵐が吹き荒れた時代の記念碑的作品。本書をそんなふうに呼ぶことは可能だろう。しかし、その「記念碑」は、もしかすると恥部に似て結構コッパズカシイ「記念碑」なのかも知れない。(了)

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2012年4月26日 (木)

(24.4.26) 読書会資料 堀田善衞 『上海にて』

 自分の出発点を確認する
                               ―堀田善衞『上海にて』を読んで

                                                           河村 義人

 堀田善衞の『上海にて』をほぼ17年ぶりに再々読し、本書が様々な意味で僕の出発点になっていることを再確認した。「魔都」もしくは「東洋のパリ」と呼ばれた国際都市・上海。流氓教授や流氓学生がいた復旦大学。戦争と哲学の問題。異民族交渉。歴史認識。魯迅。……
 例えば、終戦後まもなく堀田青年に向かってある中国人青年が次のように問いかける。「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」
“你們日本知識分子把那個天皇東西想着怎麼弁呢?”おそらくその青年は中国語でこのように問いかけたことだろう。このラディカルな問いかけは大学生だった僕の胸にも鋭く突き刺さった。そして、こんな人物がいた大学なら期待できそうだ、と密かに思ったものだ。これが、中国に留学するにあたって上海の復旦大学を選んだ理由のひとつだった。

 なぜ上海留学を希望したか
 揚子江(長江)以南の地域を「江南」と呼ぶが、大学生の頃の僕にはまず江南の風土に対する憧憬があった。地名で言えば、蘇州、杭州、紹興、無錫などといった地域である。イメージとしてのそれは、杜牧の「江南の春」(1)に代表される唐詩の世界であった。それとは別に、金子光晴の「渦」(2)という詩に象徴される1930年代の上海や堀田善衞や武田泰淳の書物で読んだ1945年前後の上海に対する興味関心があった。
 上海の復旦大学は日本で言えば京都大学のような超一流大学だが、日中友好協会派遣の私費留学生に決まった時、僕が迷わずその大学を留学先に選んだのは、主として上記の理由によるものだった。

 「徹底性」の自覚
 本書の中で堀田善衞は、例えば「異民族交渉というものは、徹底的なものである」と言い、「異民族交渉というものは、行動的なものであり、従って徹底的なものであるからこそ、それは文化の中核になりうるのである」と書いている。(「異民族交渉について」)この一節は、僕にもう一人の敬愛する作家である武田泰淳の言葉を想起せしめる。武田は次のように述べている。「滅亡の真の意味は、それが全的滅亡であることに在る。それは「黙示録」に示された如き、硫黄と火と煙と毒獣毒蛇による徹底的滅亡をその本質とする。」(「滅亡について」)
 堀田は「異民族交渉」は徹底的なものだと語り、一方武田は「滅亡」は徹底的滅亡をその本質とする、と語る。語る内容こそ異なれ、「徹底性」という一点において、両者はまさに符号のように一致する。
 テキストの中でも述べられているように、堀田と武田は同時期に上海に滞在して交遊関係があり、同じく上海で日本の敗戦を迎えた。「徹底性」の自覚は、両者に共通するところの上海体験の思想的到達点ということができるだろう。個人の力をはるかに凌駕し、なおかつその個人の上に情け容赦なく落ちかかり、叩きつぶし、破壊してしまうもの。そういう「徹底性」の自覚こそが、彼らの思想の極点であり、またてんでに文学者として仕事を開始する戦後の出発点でもあった。

 無鉄砲は堀田青年譲りか
 テキストに登場する堀田青年は、やや無鉄砲なところがある青年である。その直情径行的な傾向は、青年特有のものなのかも知れないが、僕などにも共通するものだった。巻末の「解説」の中で大江健三郎が感動的に紹介しているエピソードの数々に、やはり僕も共感を覚えたものだし、中国で自分でもそれに近い「蛮勇」をふるったこともある。
 僕は魯迅という作家が好きだが、留学中(僕の専攻は「中国現代文学」だった)のある時、魯迅が毛沢東によって、また中国の人民大衆によって、神に祀り上げられている、と閃くように自覚し、偶像破壊者が偶像崇拝されている皮肉な状況を中国語で一篇の詩として表現したものだった。
 その詩のごときもの―敢えて命名すれば、「《神》となった魯迅」(3)―を僕は大学の教授たちに示し、彼らを糾弾(?)した。この状況は批判精神という魯迅精神を無化するものだろう、と迫り、現代文学の教授たちを困らせたものだ。今から思えば、ずいぶんと大人気ないことをしたものだ。青臭い外国人留学生に指摘されるまでもなく、そんなことは彼らとて百も承知だったのだろう。彼らにも、本音とタテマエがあるのである。
 余談だが、戦闘的知識人とでも呼ぶべき魯迅の本領は、その旺盛な批判精神にある。『魯迅批判』を書いた評論家の李長之などはこの「批判精神」の継承者であり、現代ではノーベル平和賞を受賞した劉暁波などがこの系譜に位置している、と僕は見ている。

 本書を初めて読んだのは21歳の頃、筑摩書房の単行本でだった。単行本は中国に持って行き、帰国する際に日本語を勉強している中国人学生に進呈した。再読したのは社会人となってからで(33歳)、ちくま学芸文庫だった。そして今回、50歳を目前にして集英社文庫で再々読したしだい。堀田の文章は、文字通り「随筆」で連想に継ぐ連想でややとりとめがなく読みづらい印象を与えるかもしれないが、これはこれで意識の流れに忠実な文章とも言えよう。僕の場合、本書は自分の中国認識、上海認識の原点である。誰が何と言おうと(誰も何も言わないか)、それは紛れもない事実である。(了)
 語註
(1)江南の春
                               杜牧
 千里 鶯啼いて 緑紅に映ず
 水村山郭 酒旗の風
 南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
 多少の楼台 煙雨の中(うち)

(2)渦
                           金子光晴
 上海は一つのかくはん機だ。
 ひきずりこまれた人間どもは混血(ハフカ-ス)となる。

 上海は箪笥(たんす)のやうに片づいていない。
 死さへも雑居してゐる、おれたちと。

 上海で貞操を立て通すことのむづかしさ。
 まづ貞操といふ意味がないのだから。

 それかといつて諸君、上海を異常なところとおもつたらまちがいだ。
 少々ほこりがひどいだけで
 怠屈なところにかはりがない。

 (略)

 ああ渦の渦たる都上海。
 強力にまきこみ、しぼり、投出す、
 しかしその大小無数の渦もやうは
 他でもない、世界から計上された
 無数の質問とその答だ。

(3)《神》となった魯迅
                               義人
 魯迅は今やひとつの《神》だ。
 単なる英雄ではなく《神》なのだ。
 今の中国に、魯迅の文学を批判するものは誰一人としていない。それどころか、彼の人柄や作品や行為に捧げられた花束は、今やふり仰ぐばかりの山となっている。
 年端もいかない子供すら、毛沢東と魯迅の名を知っている。
 虹口(ホンコウ)公園に眠る魯迅は、国を挙げての、この神格化現象をどう見ているだろう。
 他を排撃することによって自己を形成し、極端に右顧左眄(うこさべん)を嫌った彼のことだ、きっと地の底で「そんなバカなマネはやめてくれ!」と《吶喊(さけ)》んでいるに違いない。
 経典となり果てた文学は、その辺の瓦礫に等しい。

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2012年3月24日 (土)

(24.3.24) 読書会資料 井上靖 天平の甍

留学僧の生き様いろいろ
                               ―井上靖『天平の甍』を読んで

                                                           河村 義人

 2000年間の長きにわたって日本に深い影響を及ぼしつづけた国は、中国をおいて他にはない。欧米諸国からの影響など、大きいといってもたかだか幕末以降の200年間の話にすぎない。幕末までの中国と日本の関係は、親子関係にたとえられる。親が子どもを庇護し、物心両面において一方的に与えつづけるように、中国は日本に実に多くのものを与えつづけた。漢字、仏教、儒教、法律、制度……すべて、そうである。
 今回読んだ小説『天平の甍』は、かつて命懸けで仏教を日本に「輸入」しようとした日本僧たちの物語である。

 留学僧たちの多様な在り方
 この小説はむろん鑑真和尚という中国の高僧の苦難つづきの渡航記としても読める。しかし、作者がウェイトを置いたのは、むしろ普照、栄叡(ようえい)、戒融、玄朗、景雲、業行といった日本僧たちの中国での暮らしぶりの方だった、と思われる。以下、彼らが作品に登場した時点でのそれぞれの風貌の描写やその後の足跡を概観しておこう。
 まずは、栄叡と普照。「栄叡は大柄で、いつも固い感じのごつごつした体を少し折り曲げて猫背にしており、顔には無精髭を生やしていることが多く、一見すると四十歳近くに見えたが、まだ三十歳を過ぎたばかりであった。普照の方は栄叡よりずっと小柄で、貧弱な体を持ち、年齢も二つ程若かった。」二人の共通の使命は、中国で伝戒の師を探し出して日本へと招聘し日本に戒律を施行すること。栄叡は終始一貫して使命を果たすことに情熱を傾けるが、普照は最初留学後に学びうる経典の量のことを気にかけている。その栄叡は志半ばにして逝去し、結局普照が栄叡の遺志を継ぐかたちで鑑真和尚とその高弟たちの日本招聘という快挙を成し遂げる。
 次は、戒融と玄朗。「普照と栄叡の乗り込んだ船は、判官秦朝元(はたのちょうげん)の第三船であった。同じこの船にもう二人の留学僧が乗っていた。一人は名を戒融、一人は玄朗といった。戒融は一人だけ発航当日に大津浦から乗り込んできた筑紫の僧侶で、普照と同年輩であったが、大柄な体のどこかに傲慢なものをつけていた。玄朗の方は二つ三つ若かった。玄朗は紀州の僧で、ここ一年程大安寺に来ていたということだったが、普照も栄叡もこの若い僧にこれまで会ったこともなく、またその名を聞いたこともなかった。容貌も整っていて、どことなく育ちのよさがその言動の中に感じられた。」戒融はふてぶてしい印象のある人物だが、唐土において「自分の足でこの広大な土地を歩けるだけ歩いてみるつもり」という抱負を持ち、学業を早々に放棄して托鉢行脚の旅に出る。戒融は後に帰国したという説もあるが、真相は定かでない。一方、玄朗はというと、留学早々ホームシックにかかるような他愛もない若者だが、やがて唐の女を娶り女児をもうけ、ついには帰化してしまう。
 最後に、景雲と業行。「景雲は小さな寺の一室に乗船するまでの日を過ごしていた。二人が訪ねて行くと景雲はその柔和な顔を僅かにほころばせて、隅にあった椅子を与えた。髪に白いものが混じり、一見すると六十歳近くに見えたが、皮膚はつやつやしていて老人のそれのようではなかった。」景雲は30年の歳月を唐土で無為に過ごしたと後輩に語り、日本に持ち帰るものは「この身一つ」と答える人物。シニカルで、謎に満ちた印象がある。「業行は陽の当たらぬ北向きの小さな部屋で机に向かって、筆を執っていた。そこへはいって行った普照には、その部屋がひどく冷たい陰惨なものに感じられた。(略)五十歳近いであろうか。小柄で、脆弱な体がそのまま老い込んでいたので、年齢のほどは確(しか)とは判らなかった。風采はひどく上がらなかった。」この業行は、万巻の仏典を写経し日本へと持ち帰ることを自らに課している。そして長い歳月をかけて写経を終えるものの、それを船で持ち帰る途中で不幸にも遭難し、経典もろとも海の藻屑と化してしまう。

 留学僧たちへの評価など
 これら6人の留学僧に対して、日本への文化的貢献度という観点から甲乙をつけるとすれば、おそらく普照と栄叡の両名が最高の評価を得、結果は残せなかったものの業行の方針とプロセスは高く評価されるだろう。「学業を放擲した」「私欲に走った」「期待を裏切った」という理由で、景雲、戒融、玄朗の三人には最低の評価が与えられるかも知れない。
 この中で個人的に最も親近感を覚えるのは、戒融である。なぜなら、四半世紀前に中国に留学した小生もまた戒融のように放浪の旅に明け暮れたからだ。北は北京から南は昆明まで、西はウルムチから東は上海まで、中国大陸を縦横無尽に歩き回った。シルクロードにも行き、三峡下りもした。1年のうちの半分くらいは旅行していた印象がある。後にも先にもあれほど旅ばかりしていた時期はない。
 長江河口で水平線のかなたにうっすら対岸が見えたと思ったら、それは「中州」にすぎなかったこと。揚子江下流域を船下りしていた時、午睡から目覚める度に眺めた窓の外の景色――濁流と茫漠たる大地と鈍色の空――がほとんど同じだったこと。落日に向かって西へ西へとひた走る汽車に乗っていた時、なかなか日が沈まなかったこと。……大陸の広大な自然に接したことは、おのれの世界観を拡げる上で多少は役に立ったような気がする。

 小生は利用しなかったが、留学当時「鑑真号」という船で帰国する友人もいた。今でも上海-大阪(神戸)間を「新鑑真号」とか「蘇州号」といったフェリーが就航しているらしい。一度「新鑑真号」にでも乗って鑑真や普照らの足跡をたどってみたいものだ。(了)

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2012年1月13日 (金)

(24.1.13) ―保坂和志『プレーンソング』を読んで

 「おれたちの時」を描く
                               ―保坂和志『プレーンソング』を読んで

                                                           河村 義人

この小説は、軽い。「軽い」と言って悪ければ、「垢抜けている」と言い換えてもいい。よく言えば「洗練されている」「ノンシャランな感じ」、悪く言えば「生活感がない」「泥臭さとは無縁」「リアリティが稀薄」などとも言えようか。そのような印象は、村上春樹の初期の小説にも通じるものだ。保坂にせよ村上にせよ、人気の秘密はこの辺にあるのかも知れないが、率直に言って筆者にはどうも物足りない点である。

筆者は以前、保坂の『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)という小説論を読んだことがある。それはかなり示唆に富んだ本で、あちこちに傍線を引いたり付箋を貼ったりして興味深く読了したものだ。『プレーンソング』という小説は、その小説論の面白さには及ばなかった。ジャンルの異なる本を比べるのも何だが。

 作者のねらいと成果

 E・ヘミングウェイは自らの初期短編集に「われらの時代(In Our Time)」というタイトルをつけたが、主人公の「ぼく」は作中で反発をこめて「おれたちの時」という似たような言い方をしている。

思うに、『プレーンソング』における作者のねらいは、80年代後半の日本という時代の特定の雰囲気を描くことだったのではなかろうか。つまり、一種独特の「おれたちの時」を描き出すこと。そう思う根拠はある。作中「ゴンタ」と呼ばれる若者の8ミリビデオの撮影方法にふれて、「ゴンタが撮ろうとしていたのはそういう一つ一つのことではなくて、あのときにぼくたちがああいうことをしていたということの全体なのだろう」(P.169)と書いているが、引用文の最初の「ゴンタが撮ろう」を「保坂が書こう」に置き換えれば、作者の意図を言い当てたことになるだろう。

あの時代にあのような風変わりな若者たちが存在し、独得の雰囲気をかもし出していた。その雰囲気を描き出すことが目的だったとしたら、作者は見事に所期の目的を達成したことになる。それは極めてマイナーな世界だが、そのような世界を描いてこそ真の文学者と言えるので、その点は何の問題もない。しかし、「特殊」を描くことによって「普遍」にまで至り得たかというと、残念ながら疑問と言わざるを得ない。

 描かれた2種類の青年像

 この小説には2種類の若者の姿が描かれている。①アキラ、よう子、ゴンタといった80年代後半当時20歳前後の若者たちと、②ぼく、ゆみ子、石上さんといった当時30歳前後の若者たちの2種類だ。言うなれば、①はポジで、②はネガ。世代を表すマスコミ用語で言えば、①は「新人類」で、②は「シラケ世代」。

「ぼく」の目から見れば、「ぼくたちから十歳も年下になると、全然違うことからいろんなことを考えていくことができるようになっている」(P.181)らしい。「戦争が終わって十年かそこらで生まれ」た「ぼく」らは、「大学に入ると学生運動の残りかす」を体験し、「つねに日本や世界の大状況が出来事の中心にあるように言われてい」た世代だった。そんな中でも「ぼく」や同級生の「ゆみ子」は、戦争や学生運動といった「大状況」からの発想ではなく、日常生活とか個性といった「小状況」からの発想を提唱し実践しようとした少数派だったようだ。

 筆者は世代的には明らかに①の世代に属するが、無いものねだりのように「大状況」を意識するようなところがあり(その傾向は学生時代に内外の戦後文学を耽読したことでもわかる)、心情的には②の世代の多数派に近かったように思う。一応ノンポリではあったが、差別とか不条理といったものには極端に敏感で思想的にはかなり左傾化していた。同世代の島田雅彦が命名した「サヨク」というやつだ。

 「シラケ世代」に属する「ぼく」や「ゆみ子」が「新人類」を先取りしたような存在だとしたら、「新人類」世代の筆者などはさしずめ「遅れてきた青年」のような化石的存在だったに相違ない。アナクロニズム(時代錯誤)もはなはだしいが、事実だから仕方がない。

 小説への違和感

 ところで、この小説には近所の野良猫たち、競馬、映画好きの若者たちといったものが、主人公の関心事もしくは重要な登場人物として現れる。ところが筆者の場合、イヌ派、ギャンブル嫌い、大して映画も見ないといった性格が災いしてか、そういった部分にあまり共鳴することができなかった。

 あと「ぼく」は「アキラ」や「よう子」や「島田」たちと奇妙な共同生活をしているが、筆者は個人的にプライバシーのないそんな状況には到底耐えられない。ゆえにそのような設定にはほとんど興味が湧かなかった。

 それはそうと、筆者も80年代前半に青春を過ごした手前、やはりあの時代には格別の思い入れがある。それを小説の形で表現したいと思ったこともあるが、いまだに果たせないでいる。万が一その小説が将来日の目を見たところで、時代遅れの筆者のこと、完成したその作品が村上の『風の歌を聴け』や保坂の『プレーンソング』に似る可能性はゼロに等しく、おそらく徹頭徹尾泥臭いものだろう。ドジョウの政治ならぬ、ドジョウ文学(笑)まあ、そうやって「おれはドジョウ文学で行く!」と完全に開き直ることができたら、あるいはひょっとして納得が行く青春小説が書けるのかも知れない。(了)

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2011年10月30日 (日)

(23.10.30) 文学入門 岡真史 ぼくは12歳

                               2011.10.26

  

  ぼくは49――岡真史君に捧げる詩

                          ―岡真史『ぼくは12歳』を読んで

                                河村 義人

岡真史(おか まさふみ)君

君が残した詩は

小学生が書いたにしちゃあ、大人びている

その点は驚きだ

だが

すれっからしの大人の目から見ると

大したことはない

ハッキリ言って

この程度の詩ならゴマンとある

君のお母さん(岡百合子)が書いた

「同行三人」という文章を読んだ

大人のぼくには

君の詩文よりも

お母さんのこの哀切な文章の方が

こたえた

「同行三人」というタイトルが

どこから来たか、君にわかるか?

四国のお遍路さんが一人で巡業する時

常に弘法大師(空海)と一緒という意味で

「同行二人」というのだが

君のお母さんはその言葉と

君が残した多くの鈴にちなんで

「同行三人」と名づけたのだ

「三人」とは言うまでもないだろう

お父さん(高史明)と

お母さんと

君のことだ

真史君

実を言えば

ぼくは君と同い年だ

だから今年で満49

君から見れば

ずいぶんとおじさんだろう

でも君も生きてれば49歳だ

君は永遠に少年のままだがね

おじさんのぼくから

君にひとこと言わせてもらおう

「真史君、君は本当の喜怒哀楽を知らずに

死んでしまったんだよ」と

「本当の喜怒哀楽」は

大人になってから経験するもんだ

子どもが生まれた喜びや

世の中の不条理に対する怒りや

失恋の哀しみや

親友交歓の酒席の楽しさが

君にわかるかい?

わかるわけないね

こう言っちゃ何だが

君はずいぶんともったいないことをしたんだ

「本当の喜怒哀楽」も知らないで

勝手にこの世にオサラバしちゃったんだから

あとに詩と鈴と遺族の悲しみだけを残して

まあでも

君も今頃は

どこかで誰かに生まれ変わって

また人生をやり直しているかも知れない

だったら真史君

今度こそしくじるなよ

もったいないことは、するもんじゃない

おじさんが言いたいことは以上だ

冥福を祈る(了)

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2011年7月15日 (金)

(34.7.15) 文学入門 井上ひさし 国語元年

                            2011.7.13
  
  みんなちがって、みんないい。
                       ―井上ひさし『國語元年』を読んで

                                  河村 義人

多様な方言が日本語を豊かにする
イナバ「井上ひさしの『國語元年』は面白かったか?」
ホーキ「あんまり面白うなかったな。南部遠野弁、羽州米沢弁、会津弁、名古屋弁、長州弁、鹿児島弁……と、聞き慣れん方言がギョーサン出て来て読みにくかったわいや。京言葉や大阪河内弁なら、まあわかるけど。」
イナバ「確かに南郷家の人々は、てんでバラバラに方言を喋りょーったなあ。でも、それは著者が一番言いたいことに関係しとる思うで。」
ホーキ「一番言いたいことっちゅうのは、何だいな?」
イナバ「金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』っちゅう詩、知っとるか?」
ホーキ「知らん。」
イナバ「『鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって。みんないい。』っちゅうフレーズがある詩だわいや。この戯曲の主人公・南郷清之輔は『全国統一話し言葉』っちゅうもんを作り出そうとしとんなるが、著者が言いたいのはその逆で、方言がギョーサンあった方が日本語が豊かになるっちゅうことだろうで。」

国語改革の行方
ホーキ「なるほどな。だいたい国語改革をしようとしとる主人公自身が長州弁まる出しだもんな。矛盾しとる。国語改革をパロっとるみたいだ。でも、それにしても方言っちゅうのはわかりにくいな。南郷清之輔は『全国の人びとが赤ン坊(アカゴ)のごとく素直にアイウエオを発音すりゃーお国訛りなど自然(じねん)に消滅する』っちゅう結論ないし改革案(新潮社版P.68)を出しとるけど、そげー簡単に行くもんかいなあ。」
イナバ「行きゃーせん、行きゃーせん。そげーなこってうまく行くわけねーがな。でも、明治以降、二葉亭四迷や坪内逍遥などの小説のおかげで民間に『言文一致体』が普及したし、軍国主義の時代を迎えると、軍隊言葉は「○○であります!」みたいな長州弁もどきに統一されたし、で、結果的に日本語は統一される方向に進んだ、思うで。」
ホーキ「そうだなあ。そんでもって、日本語統一を決定的にしたのが、昭和に入ってからのテレビの普及だなあ。あれでもって東京弁をもとにした標準語っちゅうもんが、全国の津々浦々にまで行きわたっただ。」
イナバ「そげーだ、そげーだ。ラジオもあるけど、テレビが決定打だったなあ。教育面でも、学校で標準語(みたいなもん)で授業したっちゅうのも大きい、思うけどなあ。」
ホーキ「だけど、それがはたして良かったかちゅうのは、また別問題だで。」
イナバ「日本人どうし意思疎通しやすくなった半面、画一化した、没個性化につながったっちゅうことだらあ。」

暑さ寒さのせいで人は発音の手を抜く
イナバ「話変わるけど、日本のことを北京語で〝ri  ben″言うだ。」
ホーキ「リー・ベンか。」
イナバ「違う。〝ri  ben″ だ。日本人なら〝ri  ben  ren″。この〝r″が摩擦音で日本人には発音しにくいだ。これ以外にも、北京語には『er(児) 化』という巻き舌音もあって、これも日本人にはちーと発音しにくい。で、この日本が上海語になると『サポン』となる。」
ホーキ「サポン。なんだかサッポロみたいだな。」
イナバ「うん。サポン。日本人なら、サポニン。ほんでもって、福建省の閩南(ミンナン)語だと『ニッポン』。」
ホーキ「ニッポン!?そのまんまじゃねーか!」
イナバ「面白いのは、中国語っちゅうのは南に行けば行くほど発音がゾンザイになるっちゅうこった。面倒臭い発音は、すりゃーせん。」
ホーキ「何でだ?」
イナバ「おおかた暑いけえだらーで(笑)暑いと人は物言うのも億劫になって、簡単に済ませるようになるだらーで。『國語元年』でも清之輔が奥羽人が5個の母音を4個で済ますのは『北国の寒さのせい』だって言っとるけど、暑さ寒さのせいで人の喋り方は横着になる傾向があるみたいだなあ。」

田舎者は方言で物を考えている、か?
ホーキ「田舎者(もん)は方言で物を考えとるっちゅうけど、本当だらあか?」
イナバ「うららー(私たちは)こげーな鳥取弁で物を考えとるんかなあ。いかにも頭が悪そーだが。」
ホーキ「『悪そー』じゃのーて、『悪(わり)い』だらあ。」
イナバ「何言よーるだい。人をダラズにすんな。われ(あなた)も似たようなもんだが。」
ホーキ「さあさ、うらーダラズだ。われもダラズ(笑)方言で物を考えとるかっちゅうことに話を戻すと、住んでいる場所と時間によるよーな気がする。東京暮らしが長い者(もん)は『東京弁』で、大阪暮らしが長い者は『大阪弁』で考えとるじゃねーだろうか。」
イナバ「そげーだ、そげーだ。まあ、鳥取に住んどるうららーは『鳥取弁』で物を考えとるっちゅうこったなあ。」(了)

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2011年6月18日 (土)

(23.6.18) 文学入門 山口仲美 日本語の歴史

                          2011.6.15
  
   ポピュラーな「日本語」史
                       ―山口仲美『日本語の歴史』を読んで

                                  河村 義人

 もしも自分が外国人で何の因果か日本語を学ぶハメになったとしたら、さぞかし大変だったろうと思われる。まず覚えるものが、ひらがな、カタカナ、漢字と3種類もあり、漢字にいたっては、音読み、訓読みと何通りも読み方があるのだから、たまったものじゃない。おまけに文法も「骨格」というよりは「大風呂敷」みたいで独特だし、中には敬語なんてものもあって、尊敬語、謙譲語、丁寧語と複雑極まりない。日本人である以上、そんな曖昧で七面倒くさい日本語を外国語として覚える必要がない――そう思えば、自分が日本人であることにつくづく感謝したくなる。
 山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書)は、そんな日本語を客観的に捉えようとする上で役に立つ一冊だと思われる。

 本書の執筆意図
 本書は文字通り「日本語の歴史」について書かれた本だが、日本語学者である著者の執筆意図は明確である。「日本語の歴史についての専門的な知識は相当蓄積されているにもかかわらず、一般の人に向かって発信された本が出版されていない」ため、「一般の人に興味を持ってもらえる形で、日本語の歴史を語りたい」というものだ。(P.6)
 それだけではない。著者には、さらに具体的な執筆意図があった。

① 日本語の歴史に関する専門的な知識を分かりやすく魅力的に語ること
② できる限り、日本語の変化を生み出す原因にまで思いを及ぼし、「なるほど」と思ってもらえること
③ 現代語の背後にある長い歴史の営みを知ってもらうことによって、日本語の将来を考える手がかりにしうること

 以上、3点である。意図とは、目的のことだ。目的は達成するためにある。本書の目的は、はたして達成されただろうか。

 回りくどい説明はNG
 とはいえ、執筆意図の①から③までを順を追って検証してゆくのはいささか面倒なので、ここでは大雑把な感想を記すにとどめる。
 第Ⅲ章の「うつりゆく古代語」では、ひたすら「係り結び」の消滅という現象を追っているが、用例が多すぎてウンザリし、「係り結びなんてどうでもいいよ」と言いそうになった。「係り結び」というのは、平安貴族のひらがな中心の言葉を象徴しており、その貴族階級の没落が「係り結びの消失」という事態に重なっている、と簡単に言ってくれれば良さそうなものを、あれやこれやと回りくどく説明するもんだから、「それが『専門的な知識を分かりやすく』ということかねえ」と皮肉のひとつも言いたくなる。

 面白い点もある
 さりとて、ひとつ勉強になった話もなかったわけではない。現代の仮名の発音が62音(清音44、濁音18)あるのに対し、奈良時代の万葉仮名は88音(清音61、濁音27)もあったこと(P.35)。「ひらがな文」に対する「漢字カタカナ交じり文」の優位性(P.85,86)。三遊亭円朝の語り口が言文一致体の手本になったこと(P.193)等々。とりわけ面白いと感じたのは、「がっしがっしと歩み」「むんずとつかんで」「捨ててンげり」といった「武者詞(むしゃことば)」。「討たせ」「射させて」といった使役を使った「負け惜しみ表現」も愛嬌がある。面白いと言えば、「しょーべー(商売)はでーく(大工)だと?」「なげー(長い)なめー(名前)だなー」「ふてーやろーだ」といった落語に残る「江戸語」も面白い。

 ありがたい「言文一致体」
 それにしても、ありがたいのは明治以降に確立した言文一致体だ。話すように書くので、誰でも自在に書けるという点がいい。「主観的に断言したい時は『だ』を連発し、語りかけたい時は『です』や『ます』を使い、客観的に述べたい時は『である』を使うというぐあいに」(P.207)表現上、様々なバリエーションがあるのもいい。話し言葉のようにそれらをミックスさせることで、文章に「書き手の呼吸のリズム(=個性)」が現れるというのだから、こんな結構な話はない。
 巨大地震や大津波や原発事故が起きるケンノンな時代だが、言語環境という面において、われわれ日本人は過去最高の黄金時代を迎えていると言えるだろう。そのメリットを享受し、駄文を書き散らすことで「個性」とやらを存分に発揮してゆきたいものである。(了)

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2011年6月 4日 (土)

第2回おゆみ野の森総会資料 その2

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第2回おゆみ野の森総会資料 その1

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