旅行 青森

(19.6.3)金剛山 最勝院

 金剛山最勝院(さいしょういん)といってもほとんどの方が知らないのではなかろうか。実は私も知らなかった。
 青森県弘前市にある名刹である。弘前城を探索していたら、近くに五重塔があったので行ってみたところ、この寺に到着した。近くで見ると実に美しい五重塔だ。
 薬師寺の東塔・西塔や山口市にある瑠璃光寺の五重塔に匹敵する。

 今回は青森旅行の最終版として、この最勝院を紹介したいのだが、なんとも不思議なお寺なのだ。
  通常私たちはも区別せずお寺だと思っているが、厳密に言うと院は僧侶の寝起きする場所を指すらしい。

 中国では僧侶が寺で寝起きをせず別途宿舎に住んでいたが、それを院と言ったようだ。日本では基本的に僧侶は寺に住んでいるので、寺と院の区別がなくなった。

 私が実に不思議に思っているのは、明治政府が行った神仏分離策のこのお寺の対応である。
 もともとここは大円寺というお寺があったが、当然神社も兼ねていた。それを明治初期の神仏分離策の結果、お寺と神社の組み合わせは駄目なので、院と神社の組み合わせに変えたという。現在の最勝院と八坂神社である。

うぅーん」唸ってしまった。
院はお寺ではないのか。これで神仏分離ができたことになるのか
 なんとも不思議な感じがした。
 明治政府の威令も、この陸奥(みちのく)のさらに奥の弘前までは届かなかったのか、あるいは津軽の人が明治政府を出し抜いたのか、なんとも判断がつかない。

 もう一つ不思議なのは、聖徳太子堂があることだ。五重塔を建立したときに、同時に太子堂も建設されたという。
 しかし、五重塔と太子堂の関係も今ひとつ分からない。

 私のように仏教関係の知識のないものにとっては、ただただ不思議な組み合わせとしか言い様がない。

 しかし、そおした難しい話を抜きにすると、この寺院は実に美しい景観を誇っている。写真愛好家にとっては垂涎の的みたいなところだ。
 今回は、青森シリーズの最終回として、最勝院の写真を見ていただきたい。

 また、フォトショップでコンピュータ絵画も作成した。自分では前より技術的に進歩したつもりだがどうだろう。

http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/HpWPxH

なお、青森シリーズのブログは以下のとおりです。(弘前城、亀ヶ岡遺跡、岩木山、八甲田山の順)

http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/19531_fc62.html
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/19525_75a7.html
http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/19520.html
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(19.5.31)弘前城

 昨年の10月下旬、青森に登山(八甲田山、岩木山)をかねて旅行をしたとき、是非訪れてみたい場所があった。弘前城である。
 この城のことは、毎年桜の季節になるとテレビで放映されるので「弘前城はなんと桜の美しいところだろう」と思っていた。
 かみさんはすでにこの場所を訪れており「弘前城は絶対見る価値はあるわ」と言っていた。

 今回は10月下旬であり、桜の季節ではないが、その代わり紅葉(こうよう)の紅葉(もみじ)がひときわ映えていた。
 弘前城はまさに期待したとおりの観光スポットだったが、それにもまして驚いたのは弘前市全体の瀟洒なたたずまいである。
 弘前城の周辺は武家屋敷と神社仏閣が昔のまま残されており、そのあたり一体は江戸時代にタイムスリップしたような気分になる。
 萩や津和野や高山にも似ているが、それよりももっと重厚な江戸時代を感じさせてくれる場所だ。

 また、駅周辺は区画整理がされたこぎれいな商店街になっているが、人口が20万以下のためか人通りは少ない。
青森はどこに行っても人が少ないな
 今回の旅行中いつも感じていた印象を弘前でも感じた。

 私はこの弘前市に2日間泊まって町中を歩き回ったが、日本有数の魅力あふれる街と言う印象を受けた。
 何しろ江戸時代の城下町が、そのまま残されていて、古き良き日本を見る思いだ。もっと宣伝すればよいのに青森の人はおくゆかしいのだろう。
 まだこの街を訪問したことがない方は、是非訪問することを進める。

 弘前城は弘前藩津軽氏の居城で、津軽地方の政治経済の中心地だったが、現在は弘前公園として整備されている。
 現在も三層三階の天守閣が残されており、約200年前に建造されたものだと言う。それ以外にも江戸時代の櫓や堀がそのまま残されているのがうれしい。

 弘前公園は特にお堀が美しい。今回は弘前城とその周辺の写真を掲載する。きっと気に入ってくれると思う。スライドショーで見てください。
 また、コンピュータ絵画(油絵)も作成してみた。ただしこちらは満足の行くできばえではない。今回はホームページビルダーのウェブデザイナーを使用しているが、次回はフォトショップで再挑戦してみよう。

(写真)
 http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/KwOcUH

(コンピュータ絵画)
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/WkFgnC

なお、青森シリーズのブログは以下のとおりです。(亀ヶ岡遺跡、岩木山、八甲田山の順)
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(19.5.25)亀ヶ岡遺跡

 亀ヶ岡遺跡をご存知だろうか。中学の歴史教科書に出てくる青森県津軽地方の遺跡である。初めてこの名前を聞いたとき非常に奇妙な名前だと思った。
亀でもいるのかしら

 長い間、この遺跡を訪れたいと思っていたが、昨年の10月末に八甲田山、岩木山の登山をしたあと、訪れてみた。
 五所川原の駅からバスに乗ったのだが、信じられないことに運転手に聞いても亀ヶ岡遺跡がどこにあるか知らなかった。
中学校の教科書に載っている日本を代表する遺跡なのに・・・

 仕方がないので、それらしき場所で下り、探しまわってようやく、目の玉の大きな遮光器土器のモニュメントを見つけた。
 しかし、寂し過ぎるのだ。モニュメントのほかは、ちっぽけな公園とトイレしかない。モニュメントの後ろは、葦の生えた小さな沼があるだけだ。
これが、亀ヶ岡!!!」

 実際は、ここから約1.5km程度離れた大溜池と呼ばれる沼のそばに縄文館があって、そこで亀ヶ岡遺跡の出土品を展示してあったのだが、そのときは知らなかった。
 しかし、遺跡そのものはまったく地味で、はっきり言ってしまえば「どうでもいい」というような取り扱いなのだ。三内丸山や吉野ヶ里とはまったくちがっている。
これが、中学生の頃からあこがれていた亀ヶ岡遺跡なのか
 がっかりしてしまった。

 気を取り直して、地図にあった日本海の近くの屏風山の家キャンプ場という場所に歩いて行くことにした。亀ヶ岡遺跡から約4km程度はなれた、平滝沼のほとりにある。このあたりは沼が非常におおく、湿地帯と言っていい。

 しかし行ってみると、このキャンプ場も数年前に閉鎖されて、水道も止められていた。誰もいないのだ。
 私は登山用具一式を背中に背負っているので、沼のほとりでテントを張っていたら、青森警察のパトカーがやってきて職務質問をされてしまった。
沼のほとりで、あやしげな人物がキャンプをしている」と誰かが通報したらしい。この場所でキャンプをする人はたえていなかったのだろう。

身分を証明するものを見せてください」言葉は優しいが、明らかに疑っている。
この時期に、こんな場所でキャンプをするなんて、オオム真理教の残党ではないか、そんな雰囲気だ。

 保険証を提示したら、オンライン検索をして、私がある金融機関の職員だったことを確認し、ようやく疑いを解いたようだった。

このあたりは、夜間誰もいないないのですよ。携帯は持っていますか
いえ
何かあったら連絡のしようがないな。大丈夫ですか
ええ、いつも山の中で一人でキャンプを張ってますので
このキャンプ場は、数年前から閉鎖になっていてキャンプ禁止だが、まあいいでしょう
 15分くらい職務質問されてようやく許してもらった。

 しかし、青森は人がいないところだ、八甲田山も岩木山もキャンプ場には誰もいなかった。この屏風山の家キャンプ場はキャンプ場そのものが無くなっていた。縄文時代の竪穴式住居がぽつんと残されているだけだ。

 今回の写真集は、亀が岡遺跡屏風山の家キャンプ場、そして日本海沿いに五能線の鳴沢という駅まで歩いたときの写真を掲載する。
 駅までは約15km程度だったが、小雨混じりの天気でダンプカー以外とすれ違うことはなかった。本当に人が少ないのだ。

http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/181029

 
 このブログと関連のあるブログは以下のとおりです

八甲田山
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岩木山
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(19.5.20)岩木山

 昨年の10月末に思い立って、青森に旅行をした。八甲田山岩木山に登りたかったからである。ついでに津軽半島の日本海側と弘前市に寄ってみた。津軽は私の好きな場所だ。

 八甲田山は風雨が強かったため、途中で引き返さざるを得なかった。だから、岩木山にはなんとしても登ろうと強い決心をして、岩木山神社のキャンプ場までやってきた。岩木山神社は「奥の日光と言われるぐらい著名な神社であるが、私は深田久弥の「日本百名山を読むまでそのことを知らなかった。

 この時期のキャンプ場には誰もいない。また一人だけでキャンプを張るのだが、正直言うと夜が怖い。何しろ私は「蚤の心臓」とかみさんから言われているくらいだ。
物音がすると、すぐに目が覚めて、そばに置いてある登山用の杖を持って身構えてしまう。
この時はヨタカの声に飛び起きた。「ぎゃー」といすさまじい鳴き声なのだ。「な、な、なんだ。なんなのだ」状況を把握するのに、しばらく時間がかかった。ヨタカの声と分かっても、しばらく心臓が高鳴ってしまった。

 岩木山はとても秀麗な山だ。津軽地方からはどこからでも見ることができる。別名を津軽富士と言う。津軽の人は、この山を「おいわきやま」と愛着を込めた名で呼ぶ。
1600mの丹沢程度の山だが、独立峰なのでもっと高く見える。また北にあるので、高山植物も豊かだ。

 私の登った前日には少し雪が降ったようだった。地元の人が「雪があるから気をつけなさい」と注意してくれた。

 キャンプ場から、4時間程度で登れるので決して難しい山ではない。上はガスでかすんでいたため、下界は見えなかったが、十分登山を楽しめた。
それにしても不思議なのは、八甲田山のような気象条件の厳しさがないことだ。八甲田山とは、たった50km程度しか離れてない。たまたまなのか、本質的に八甲田山と異なるのか判断がつかない。

 今回は、岩木山岩木山神社の写真を紹介する。スライドショーで見てください。

(追伸)
 考えてみれば、岩木山も、八甲田山も深田久弥の日本百名山の一つだ。今後の私のライフワークとして、百名山の写真をWeb写真として紹介するのは楽しそうだ。
もしかしたら、人生の金脈をつかんだかもしれない
 少し浮かれてしまった。

http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102902

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(19.5.12)八甲田山

 八甲田山をご存知だろうか。青森市からバスで1時間ちょっとで行ける標高1600m程度の山塊である。関東界隈の山で言うと丹沢程度の山である。

 ここで明治35年、青森第5連隊の将兵210名が雪中行軍を実施し、うち199名が遭難した。この遭難事件は新田次郎が「八甲田山死の彷徨」と言う小説で圧倒的な迫力をもって描いたため、山岳小説の愛好家は八甲田山は魔の山だと思うようになった。
 また、「八甲田山」と言う題名で映画化されており、高倉健が主演していたので見られた方もあると思う。その中で将兵が雪の崖を滑り落ちていくシーンを見たものは、絶対に八甲田山に近づくまいと思ったはずだ。

 私は長い間、なぜ1600m程度の低山で、軍人と言う最も体力的に恵まれた男たちが199名も遭難死したのか不思議に思っていた。
 そこで昨年の10月下旬、青森県に旅行した折、八甲田山に登山してそのことを確認しようとした。

 まず最初にびっくりしたのは、青森第五連隊の将兵が遭難した場所は、八甲田山中ではないことだ。ふもとに近く標高も700m程度の場所だ。晴れていれば青森市が真下に見えそうだ。
こんな低地でなぜ遭難したのだろう」不思議に思った。

 しかし、理由はすぐに分かった。
 私は青森市からバスで酸が湯(すがゆ)温泉に入り、そこでキャンプを張ったのだが、まだ10月下旬と言うのに、横殴りの氷雨にあって、すぐに凍えきってしまった。寒いのだ。
 テント場は閉鎖されており、誰一人いない。この時期に登山する人はほとんどいないようだ。私は管理棟のテラスにテントを張って寝たが、風にあおられ、シュラフ二つ重ねても寒さで寝つけなかった。
なるほど、ここは凍えるような場所だ

 それでも翌朝は、八甲田山の主峰大岳に向かって登り始めたが、途中の広大な湿原地帯で風にあおられ、身体を倒すようにして進もうとしたが、それでも一歩も前に進めなくなってしまった。風の強さは半端でない。しかも雨混じりであったので、気持ちがすっかりなえた。
死んでしまいそうだ

 10月下旬でこうなのだ。真冬になったらいかばかりか想像が付かない。八甲田は日本海から太平洋への風の通り道と言ってよい。遭難した理由が分かった。

 今回は八甲田山を中腹まで上った写真を掲載する。氷雨の中の写真なのでからっとした写真はない。毎回の写真集で恐縮だが、すっかりWeb写真にはまってしまったので許していただきたい。またスライドショーで見てください。

 http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/18102903

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