失敗記

(19.4.20)失敗記 その7

415_026  何度かトライをした。自分としては十分に努力をしたこともある。それでもどうしても到達できない壁のようなものがあった。英会話の能力のことである。

(英会話の巻)

 英語、わけても英会話のことについて話すのはつらい。なぜこんなにも無能なのかという話になってしまうからだ。息子や娘を見てみると、高校や大学の成績は良いとはお世辞にも言えないのに、楽々と英語を話している。

 私は子供たちに比較して学生時代の成績は良かったし、英語の読解力はそこそこあるのに、英会話となるとまるで児戯に等しい。読むことはできても会話ができないという、日本英語教育の典型的な生徒になってしまった。

 自分の欠点は十分に理解していたので、英会話の訓練もかなり実施した。NHKの英語番組は欠かさず見たり、NOVAのような英会話教室に通ったり、一時はウォークマンで英会話のテープを会社の行き帰りに聞いていた。

 特に私が勤務していた会社は、海外に数支店を持っており、国際関連の取引が活発だったから、英語の習得を熱心に支援した。
 はっきり言ってしまえば、「会社のもっとも日のあたる場所で仕事をしたいのなら、英語、わけても英会話の能力を磨け」ということだ。

 私もサラリーマンだから、何とか英語の能力を認めてもらい、国際畑で仕事がしたかった。私のいた会社ではトッフルリーディングヒアリングのテストが行われており、ここで最低でも600点を取ることが、国際畑で仕事をする条件になっていた。しかしどんなに努力しても私の成績は500点前後にとどまった。

頭が悪いのかしら、耳が悪いのかしら
 実を言うと、私の右耳は真珠腫性中耳炎の手術をした後、極端に聴力が落ちている。左の耳もあまりよくない。原因を頭の悪さにするのはつらい。耳が聞こえないことが原因とすることにした。

耳が悪いのに無理するのはよそう。英語ができなくても会社を追い出されるわけではない。今の部署に骨を埋めよう

 その後、英語のことはすっかり忘れていた。私のいたシステム部門は、国際系システムを除いて、英語はほとんど必要なかったせいもある。そうして、定年退職を向かえた。昨年のことである。

 しかし、人間の運命とは分からないものだ。息子がオーストラリアの女性と結婚したために、親戚がオーストラリア人になってしまった。
 こうなると耳が悪いので、英語など知らないなんて威張っていられない。早い話が結婚式では愛想良くオーストラリアの親戚と話をしなければいけなかったし、その後のe-mailのやり取りもある。

 息子のよめさんは日本語がたどたどしいので、英語でコミュニケーションをとらざる得ない。息子の友達もオーストラリア人が圧倒的に多いので、会話は英語だ。
しかも信じられないことに、嫁さんのお母さんが日本語の勉強を始めた。70歳である。60歳の私が弱音を吐くわけには行かなくなった。

もう一度、がんばろう。何とかして最低限のコミュニケーションがとれるレベルを目指そう。そうしないと親戚とも会話ができない
 そう決心して、日常英会話の本とCDを買ってきた。今度は英会話をしなければならない必然性が高いので、うまく行くかもしれない。
 嫁さんのお母さんと競争だ。

 そんな望みにかけて最後のトライをすることにした

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(19.4.8)失敗記 その6

 これは本当の話である。私は冗談が多いので、冗談と真実との境目がはっきりしないが、実際シナリオライターになろうとして、足掛け4年間奮闘努力した。
 そして、プロになれる一歩手前で挫折した。45歳前後の話で、約15年ほど前になる。

(シナリオライターの巻)

  東京にはいろいろな教室がある。放送作家教室もその一つで、プロのシナリオライターを養成するため、現役のシナリオライターが指導に当たっていた。
 金子成人氏や、布施博一氏や、竹内日出男氏といった日本のシナリオ界を代表する人たちがかわるがわる教師になって指導をしていた。
 
 当時の放送業界は、バブルがはじけた後もなお収益を十分確保しており、テレビドラマ制作に対し十分に資金をつぎ込むことができていたらしい。そのため、新人のシナリオライターの発掘が急務だったのである。

 生徒数は正確に何人か分からない。しかし常時300人程度はいたと思う。シナリオ教室はいつも満員だった。ここで生徒はプロのシナリオライターの指導を受けながら、4百字詰め原稿用紙で60枚程度の作品を、年間2本作成することが義務づけられていた。

 そして、年に1回、教室内のコンテストがおこなわれ、私は1989年度のコンテストで、優秀賞を取った。題名は「市民ランナー1990」と言う。
 当時から私はマラソンが趣味で、よく神宮外苑でトレーニングをしていた。その経験と、私が勤務していた金融機関の渉外担当の経験をミックスして、うだつのあがらない職員が、マラソンランナーとして成功していく話を作ったのである。自分史に近い。

 よくシナリオ世界では、一本だけはすばらしい作品が書けるという。自分史を書くと、個性的で他人から見て大変興味のある話が書けるからだ。
 ビギナーズラックとも言う。私の場合それだったのかもしれない。

 たまたまこのコンテストの審査委員に、日テレのディレクターがいた。私の作品を読んで、自分が担当しているテレビドラマで放送してもいいと言う話が持ち上がった。

 私は舞い上がってしまった。
金融機関の仕事はアキアキだ。ようやく私も自由業者になれる。小椋佳みたいだ
 その後、日テレには何回足を運んだか分からない。金融機関の事務室と違っていつも騒がしく、ディレクターも何かいくつもの仕事を抱えて、集中できないような雰囲気だった。

山崎さん、私の持っている番組は2時間ものなので、2時間になるように書き直してくれませんか
 私は、1時間ものを、2時間物にして持っていった。
山崎さん、この題〔市民ランナー 1990〕じゃだめだな、題名を変えてくれませんか
 私は題名を〔友よ、風に向かって走れ〕に代えて持っていった。
山崎さん、すまん、時間がなかったので、まだ修正版を読んでない。次回までに読んでおくから

 私は放送業界の実情に無知だったが、当時私の置かれている立場は、プロ野球の二軍選手の立場とよく似ていた。レギュラー選手が怪我や故障で戦列を離れたときに、急遽ピンチヒッターで出てくる選手だ。
 ディレクターはもしもに備えて、単に時間延ばしをしていたに過ぎない。しかし私の場合、いくら待っても出番が回ってこなかった。
 このような状態が、ほぼ1年位続いた。

 その間、私は何本かのシナリオを書き、いくつかのコンテストで、最終審査まで行ったが、いづれもその段階で落ちた。
 この世界は、入選も落選も紙一重で、何かの偶然で入選したり落選したりするのだ。

 だから、もっとも確実な方法は、すでに社会的評価の定まった、シナリオライターを師として、そのライターの引きでデビューを果たすことだった。いわば徒弟制度のようなものだ。

 しかし、45歳を過ぎて、徒弟になるのはつらい。その後もシナリオを書いていたが、だんだん情熱は薄れ、いつの間にか書かなくなってしまった。
まあ、シナリオなんて書かなくても、今の仕事で生きていける
 
 こうしてシナリオライターになる夢は破れた。

 だが、定年後、信じられないような時代が始まった。ブログと言うシステムが普及し、私は毎日ブログを書く生活をはじめた。書いても収入にならないことを除けば、かつて夢見たシナリオライターの生活そのものだ。

 うぅーん、だから、60歳になり、夢が実現したと喜ぼう。

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(19.4.3)失敗記 その5

数学をつくった人びと〈1〉 Book 数学をつくった人びと〈1〉

著者:E.T. ベル
販売元:早川書房
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 信じられるだろうか。私は数学者になろうとしたのである。数学ができるからか。否、まったくできないからだ。

(数学者の巻)

 数学がわからなくなったのは、高校1年生の一学期からである。複雑な因数分解がまったくできなかった。以来数学は苦闘の連続だった。
 対数三角関数なんてほとんど理解できなかった。教師は大変丁寧に教えてくれていたのだけれど、何しろ基礎がまったくないのだから理解のしようがない。

 だから、高校3年生になって、数学の授業を受けなくて済んだときは、心底ほっとした。「これで数学とは永遠におさらばだ。数Ⅲなんて知るか

 しかし、正直言ってこの数学ができないことは、私の心の中に深いコンプレックスとして残ってしまった。本当は数学者になれる才能があったにもかかわらず、ちょっとした手違いで道を踏むはずしてしまったのではなかろうか。

 就職では、別に数学ができなくてもなんら問題はなく、数学のことはトンと忘れていた。ところが私が30歳になったある日、衝撃的な本を見つけてしまった。
 本の名前は「数学をつくった人びと」と言う。E・T・ベル著で、この本は1937年に発行され、その後、数学史上ではもっともよく読まれた名著だった。
 物語数学史で、数式は簡単なもの以外はまったく記載されていない。もっぱら数学者の生き様と情念を記載していた。私はこの本をむさぼるように読んだ。

 その結果、「数学界の王者はガウス」で、「貧困の天才はアーベル」で「天才と狂気の数学者はガロア」だ、というような知識でいっぱいになってしまった。アーベルの味わった貧困に涙し、20歳で決闘によって散っていったガロアに同情した。ガウスの誠実さには心を打たれた。

 そして、信じられるだろうか。私は数学者になると決心したのである。情念だけで数学者になろうとしたのだからすごい。さっそく数学関係の本を買いあさった。
 ヒルベルトの「幾何学の基礎」やカントールの「超限集合論」のような、歴史的文献を集めて、本棚に飾った。棚が数学書でいっぱいになった。
うん、数学者らしくなった。本がないと学者らしくない

 しかし、こうした本は、何が書いてあるかさっぱり理解できなかった。これでは数学文献のコレクターだ。大学の数学の教科書で勉強しなおすことにした。
大学の数学ぐらいならわかるだろう
 昔、数学専攻の友達が、高木貞治の「解析概論」を持っていたのを思い出して、まねて勉強を始めた。しかしこれも最初の1ページを見ただけで、何が書いてあるのかさっぱり理解できなかった。

うぅーん、大学の数学もタフだ
仕方ないので、基礎から始めることにした。高校の数Ⅰ、数Ⅱ、数Ⅲを学びなおすことにしたのである。定評のあった矢野健太郎(ヤノケンと呼ばれていて高校生の間で評判が高かった)の参考書を買い込んで勉強を始めた。

 私は当時営業担当だったが、あいている時間はいつもヤノケンの参考書を解いていた。営業の途中でも参考書を忍ばせた。夢中になると降りる駅を間違えて、約束の時間を違えた。言い訳が大変だった。
ちょっと、考え事をしていて、降りる駅を間違えました。申し訳ありません
頭のええ人は、考えることがぎょうさんあって、大変でおますな」と思いっきり皮肉を言われた。

 こんなに努力した結果、3年目にようやく数Ⅲにたどり着いた。高校時代にすっぽかした、あの数Ⅲだ。ここで極限の概念をはじめて知ったが、何度読んでも極限が理解できなかった。覚えておられるだろか、∞ー∞のような、不定形の概念である。ここを突破できなければ、数Ⅲの微分積分に到達できない。

 しかし、当時の参考書はどんな人間にも極限の概念を理解させるようなレベルに達していなかった。ヤノケンの参考書でもそうだった。私は涙を飲んで数学者になる夢をあきらめた。
しょうがない、この会社に骨を埋めよう

 それから20年以上たったある日、定年後のことを考えた。
定年になって有り余る時間を過ごすのは大変だ。時間つぶしがないと生きていけない

 昔、数学の参考書を時間を忘れて読んでいたことを思い出した。今度は、大学受験の雄、馬場敬之(けいし)の参考書で勉強を始めた。彼が「どんな人間にも数学を理解させることができる」と豪語していたからだ。
パーでも大丈夫」といっているに等しい。
 私は彼の参考書を読んで初めて極限の概念を理解し、数Ⅲを理解した。
もしかしたら、数学者になれるかもしれない」再び舞い上がった。

 しかし、まあこの年だ。
数学者にはなれそうもないが、数学の愛好家ぐらいにはなれるかもしれない。希望を持って生きよう。

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(19.4.2)失敗記 その4

 私は若い頃、国連職員になりたかった。何回かトライしたが結局なれなかった。およそ20年前、40歳の頃の話である。

(国連職員の巻)
 私も時代の子である。国連に対し尊敬と憧憬の念を持って育った。国連による世界平和や、国際語エスペラントの普及を心から願った一人である。最近になり、国連が地域紛争さえ解決できない現状や、国連職員の汚職体質を知ったが、それまでは純粋に国連を支持していた。

 国連職員の募集は定期的に行われており、特に一時期は、日本人の国連職員が少ないため、積極的なリクルートもされていた。
 しかし、条件が厳しい。英語かフランス語で実務ができ、修士課程以上の学歴を持ち、専門家として相応の社会的実績があることが、基本条件になっていた。

 どれを見ても条件がクリアーできない。英語は学校英語で片言だし、修士の学歴はない。日本のサラリーマンだから、専門的知識より、社内遊泳術のほうが得意なくらいだ。

 思い余って社会人入学を認めている大学院の入試を受けることにした。せめて修士号だけでもとろう。しかし学科試験を受けたのでは学力がばれるので、面接と小論文だけで入学を許可してくれる大学院を選んだ。 筑波大学大学院が、そうした条件を満たしていたので喜び勇んで応募した。

 試験官から質問を受けた「どのような研究テーマを選ぶのか
私はあわてて「国連職員のなるための資格として修士が必要なので、テーマは何でもいい」と答えた。
 試験官は笑っていたが、すぐに「不合格通知」を送ってきた。正直すぎたと反省した。

 正式な国連職員になるのは無理だとわかったので、各国連機関が独自に募集している、臨時職員に応募することにした。スペシャリストと言う。たまたまスイスのジュネーブにある国連の下部組織がスペシャリストの募集をしていた。
パソコンの操作能力が高く、英語で日常会話ができること」が条件だった。

 これなら何とかなりそうだ。3名以上の推薦者がいることになっていたので、部下に強引に頼んで立派な推薦状を作った。相当程度誇張もした。
山崎次郎氏は英語に堪能で、業務を遂行するに足る十分な能力を要しております。またパソコンの操作については、スペシャリストとしての能力があります

 しばらくして、スイスから電話が来た。「前任者が不慮の事故にあったので、すぐに来てほしい。場所はソマリアでパソコン通信のスペシャリストが必要だが、貴方が条件に一番あっている

 ソマリアは世界でもっとも危険な紛争地帯だ。確かに私は国連職員になりたかったが、本音はスイスの湖畔でのんびりとつりをしたり、ヨーロッパで旅行をしたかっただけだ。ソマリアだったら、銃弾の中でパソコンを操作しなければならない。
 それに正直言えば、英語だってろくにできないし、パソコンの操作はワードとエクセルが扱える程度だ。  

 しかし、意欲満々の推薦状も書いてもらった手前、無下に断れない。 見栄がある。
男は見栄がなくなったら、男じゃない
 一応、妻と相談してからと言って電話を切った。

 かみさんに相談したら、「馬鹿じゃない」と言われた。すぐに見栄からさめた。

 翌日、「現在の仕事が手が離せないので、今回の話は応じられない」と言って断ったときは、実にほっとした。

 後で知ったのだが、臨時職員は国連の中でもっとも危険な場所に送られ、一方、国連の正規社員はスイスやパリやニューヨークのような安全な場所で勤務していた。臨時職員は使い捨てなのだ。もう少しでソマリアの原野で野垂れ死にするところだった。

 こうして、国連職員になる夢は潰えた。

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(19.3.30)失敗記 その3

(19.3.30)失敗記 その3

 私は若い頃に登山家になりたかった。そしてそれなりに努力したつもりなのだが、なぜかなれなかった。

(登山家の巻)

 私の最初の勤務地は長野市だった。長野は登山のメッカである。たまたま先輩が北アルプスの表銀座コース(燕岳・大天井岳・槍ヶ岳のコース)に、夏、連れて行ってくれた。それから俄然、山に目覚めてしまい、長野市近在の山に時間があれば登るようになった。

 その頃である。新田次郎孤高の人」を読んだ。登山愛好家は必ずこの本を読んでいる。主人公は加藤文太郎(ぶんたろう)で、昭和初期を代表する登山家だったが、惜しくも1936年(昭和11年)冬の槍ヶ岳北鎌尾根で31歳の生涯を閉じた。単独行の文太郎とも呼ばれる。

 普通の人は読んで感心するだけだが、私は「この文太郎を継ぐのは私しかない」とまで入れ込んでしまい、文太郎が行ったトレーニングを真似た。同じトレーニングをすれば、私も文太郎になれる。

 ビバーク対策として、冬の戸外で眠る訓練を始めた。たまたま寮に住んでいたのだが、冬の真っ最中に、寮のベランダで寝ることにしたのだ。衣類を思いっきり着込んで、上からツェルトをかぶった。
 たまたま、私は新婚当初であったので、これが話題になってしまった。
どうも、奥さんとうまく行ってないので、山崎さんは外で寝ている

 かみさんから懇願された。「私の立場がない
 文太郎になるための、ビバークの訓練は約1週間で終わってしまった。実際してみるとわかるが、厳冬の長野市は寒くて寝られるものではない。仕事中にうつらうつらしてしまう。

 文太郎がおこなった絶食の訓練もしてみた。数日間、水だけでどの程度耐えられるかという訓練である。遭難したとき何日持つかがわかる。
 たまたま会社の集合研修が1週間あったときにテストしてみた。三日間何も食べなかったことがある。
 研修担当から「誰か、食事をしない人がいるが、誰か」と問われた。
私は黙っていたが、4日目にたまたまサッカーをすることになって、めまいがして倒れてしまった。私が絶食していることがばれた。
君は、研修に来ているのだから、絶食の訓練なんかしてはいけない」と釘をさされた。3日程度の命だと言うことがわかった。
 
 会社に石をつめたリックザックを背負って通勤する訓練も行ってみた。足腰の鍛錬である。文太郎は20kg程度のリックを背負って通勤していたので、私も当初は20kgにしたが、重いのですぐに10kg程度にとどめた。私が大阪で勤務していた頃である。

 梅田の駅から御堂筋までリックを背負って歩いていた。上司から質問された。
何で、そんなことをするのか
 文太郎の真似だといったところ、あきれ返られた。
その情熱を、仕事に注ぎ込んでもらいたいものだ

 本人は、こんなにも真剣に登山家になろうとしたのだけれど、世間のしがらみにたやすく負けてしまった。文太郎になれない。
 あまりに口惜しいので、登山記録のブログを立ち上げた。
俺だって、この程度は山に登ったのだ
 見て、がっくりした。本当に「この程度」なのか。

 ううーん、「本気で登山家になろうとしたのではなく、単に文太郎のまねをしただけなのではないか」と言われそうだ。
 それでも一応登山ブログのURLを教えておこう。登山好きの人が間違って見るかもしれない。

http://1-0-0-0.at.webry.info/

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(19.3.27)失敗記 その2

 しばらく失敗記に付き合っていただきたい。小学校も春休みになり、私も清掃活動の報告だけでは疲れてしまうのだ。第一清掃活動はルーチンワークでもできるが、ブログは毎日同じ内容にするわけにはいかない。目先を変えないと書くことがなくなってしまう。

(自動車ラリーの巻)

 自動車ラリーのナビゲータを頼まれたことがる。友達が行く予定だったのが急遽用事ができて私に代わりにいってもらえないかという依頼だった。たしか大学の3年か4年の頃だったと思う。今から約40年前のことになる。

ナビゲータなんてしたことがないけど、どうするのか」と一応聞いて見た。
友達は「あっちに行けと指示するだけだ」と答えたので、簡単に引き受けた。

 行ってみて驚いた。このラリーは当時日本を代表する国内ラリーで、選手も日本を代表する選手だった。確かTBSがスポンサーになっていた。
 夜中中、奥武蔵と奥秩父の林道を走るのである。ラリーは騒音がうるさいため、夜半に人が少ないような場所で行われることをこのとき知った。

 私がナビゲータをしたのは、審判団と選手を一緒にしたような車で、一番最後尾を走ってリタイアした車の確認をする役割だった。ドライバーはTBSの職員だと紹介された。

 ラリーの選手の車は早い。審判団もそれと同じくらいの走力が要請された。地図を渡されてびっくりした。曲がり角だけの地図で、そこまでいかないとどこが曲がり角かわからない。ナビゲータは曲がり角に来たことをとっさに判断し指示を与えなければならない。

走っている間は、私は厳しいが我慢してくれ」とドライバーにまず念を押された。それからが大変だった。ドライバーは極度に神経が研ぎ澄まされる。人間的会話がまったくなくなった。
ばか、早く教えろ・・どっちだ・・なにやってんだ・・地図も読めないのか・・・道なりかそうでないのか早く言え・・ばか、車が交差点にはいってしまうじゃないか・・ばか

 夜中中ばか呼ばわりされてしまった。思わずむっとしたが、レース中喧嘩するわけには行かない。
お前、ここで降りろ」なんていわれたら大変だ。夜中の林道に置いてきぼりにされてしまう。

 ラリーを実際にやってみるとわかるが、自動車の速度で、ナビゲートするには、それなりのトレーニングがいる。素人が道路マップを見て指示するのとはまったく違う。友達は「あっちに行けと指示するだけだ」と言ったが、「あっちかこっちかさっぱりわからない」のだ。

 曲がり角に来るたびに、地図と場所を確認するのだが、私が確認している間に自動車はその場所を通り過ぎてしまう。
あの、さっきの場所を右だったみたいです
ばか、なぜすぐ言わない。お前、ナビゲータだろ
あの、牛乳屋を左だと思います
あれは、パン屋だ。お前、目も見えないのか

 レースが終わったときはくたくたになってしまった。あまりにばか呼ばわりされたので、ドライバーには挨拶もしないで別れた。

 正直に言うが、私はとっさの判断が苦手だナビゲータなどはもっとも不得意の分野だ。今では、こうした能力の限界をよく知っているが、若いうちはとっさの判断ができないというような限界を認めるのはつらい。

 このときはナビゲータなど二度とすべきでないということがわかっただけでも収穫だったと言える。

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(19.3.26)失敗記  その1

 この年まで生きていると失敗した経験は山ほどある。特に私はやや軽率なところがあるから、普通の人なら絶対に失敗しそうもないことで失敗している。いくつかをご紹介しよう。

(テニスの巻)
 私は学生時代硬式テニスをしたことがなかった。テニスは軟式テニスのことだと思っていたくらいだ。会社に入って初めて硬式テニスと言うものがあることを知った。寮にテニスコートがあり、先輩が手ほどきしてくれたのである。場所は長野市で約35年も前のことである。

 私はしばしこの硬式テニスに夢中になり、何冊かの入門書を買い込み、毎朝出勤前に素振りなどをして、すっかりテニスマニアになってしまった。しかし基礎ができてないのは悲しいことで、バックスイングでまともにボールを捕らえることができない。

 ちょうどその頃長野市でローンテニスクラブ設立の機運が盛り上がった。音頭をとったのは信濃毎日新聞社に勤務するバリバリのテニス選手である。当時テニスコートを持っている会社は少なく、私の勤務する会社にも参加の呼びかけが来た。技術のつたなさは、テニスコートをクラブに開放することで補われたのである。私を含め数人が長野市ローンテニスクラブのメンバーになった。

 不幸は、その年長野県で国体が開催されたことにある。開催場所は松本市だったが、わがローンテニスクラブに審判団の派遣要請が来た。信濃毎日新聞社に勤務している会長から、私の会社からも線審を出すように要望が来た。そのとき暇人は私一人だった。
線審なんて、ボールが入ったか入らないかを見るだけでたいしたことがあるまい。いいですよ」軽く引き受けた。硬式テニスを始めて半年程度の人間が国体の線審をすることになってしまったのだ。

 行ってすぐに後悔した。旗を渡されたが、これが何を意味するのか知らなかったからである。この旗でアウトとセーフの判定をするのだが、私は恐る恐る主審に、アウトとセーフの旗の振り方の手ほどきを受けた。
この人、だいじょうぶ」と主審は疑ったが、試合が始まろうとしていたので、私は線審をそのまま務めることになった。

 当時は沢松和子が全盛時代で、世界ランキング入りをしていた。私が線審をしたのは女子ダブルスで、目の前に沢松和子がプレーをしていた。
 サーブを見て驚いた。ボールが早すぎてコートに入ったか入ってないか分からないのだ。
 私が今まで知っていたテニスのは、お遊びテニスだっただから、ボールにハエがとまりそうだった。だからこの落差に愕然とした。と同時に頭に血がのぼり、真っ白になってしまった。

 旗の振り方はすっかり忘れてしまい、サーブのたびに旗を上げ下げしたものだから、沢松和子にギューと睨まれた。心臓は当にパンクしてしまい、その後どうなったのか分からないくらいだ。

 さすがに主審が見かねて、私に確認しに来た。「どっちなんだ
私は「入ったか入ってないか分からない」と答えたので、主審はあきれ返った。第一セットが終了した段階で線審を代えてくれたときは心底ほっとした。もう少しで、国体のテニス競技をめちゃくちゃにするところだった。

  興奮が収まるまで、テニスコートの端で、いじけて呼吸を整えていたが
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断るのが正しい態度だ」と心から反省した。

 実はこの私の経験と同じような経験をした国際審判がいた。シドニーオリンピック柔道決勝100k超級の主審をしたニュージーランド人である。
 ドイエの内股に対し。篠原内股すかしで対抗し、明らかに篠原が一本とっていたが、主審はドイエの内股を有効とした。
 私は断言するが、この主審はいままで内股すかしを見たことがなかったはずである。内股すかしのような高度な技は、柔道の本場以外ではついぞ見ることのできない技だ。
 この人はニュージーランドで私の国体審判と同じような過程をたどって選らばれたに違いないずぶの素人だ。

 この時は、大いに篠原に同情したが、同時にニュージーランドから来た主審にも同情した。
人間は能力を超えた要請を受けたときは、きっぱりと断らなければいけないのだ

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