(19.4.20)失敗記 その7
何度かトライをした。自分としては十分に努力をしたこともある。それでもどうしても到達できない壁のようなものがあった。英会話の能力のことである。
(英会話の巻)
英語、わけても英会話のことについて話すのはつらい。なぜこんなにも無能なのかという話になってしまうからだ。息子や娘を見てみると、高校や大学の成績は良いとはお世辞にも言えないのに、楽々と英語を話している。
私は子供たちに比較して学生時代の成績は良かったし、英語の読解力はそこそこあるのに、英会話となるとまるで児戯に等しい。読むことはできても会話ができないという、日本英語教育の典型的な生徒になってしまった。
自分の欠点は十分に理解していたので、英会話の訓練もかなり実施した。NHKの英語番組は欠かさず見たり、NOVAのような英会話教室に通ったり、一時はウォークマンで英会話のテープを会社の行き帰りに聞いていた。
特に私が勤務していた会社は、海外に数支店を持っており、国際関連の取引が活発だったから、英語の習得を熱心に支援した。
はっきり言ってしまえば、「会社のもっとも日のあたる場所で仕事をしたいのなら、英語、わけても英会話の能力を磨け」ということだ。
私もサラリーマンだから、何とか英語の能力を認めてもらい、国際畑で仕事がしたかった。私のいた会社ではトッフルのリーディングとヒアリングのテストが行われており、ここで最低でも600点を取ることが、国際畑で仕事をする条件になっていた。しかしどんなに努力しても私の成績は500点前後にとどまった。
「頭が悪いのかしら、耳が悪いのかしら」
実を言うと、私の右耳は真珠腫性中耳炎の手術をした後、極端に聴力が落ちている。左の耳もあまりよくない。原因を頭の悪さにするのはつらい。耳が聞こえないことが原因とすることにした。
「耳が悪いのに無理するのはよそう。英語ができなくても会社を追い出されるわけではない。今の部署に骨を埋めよう」
その後、英語のことはすっかり忘れていた。私のいたシステム部門は、国際系システムを除いて、英語はほとんど必要なかったせいもある。そうして、定年退職を向かえた。昨年のことである。
しかし、人間の運命とは分からないものだ。息子がオーストラリアの女性と結婚したために、親戚がオーストラリア人になってしまった。
こうなると耳が悪いので、英語など知らないなんて威張っていられない。早い話が結婚式では愛想良くオーストラリアの親戚と話をしなければいけなかったし、その後のe-mailのやり取りもある。
息子のよめさんは日本語がたどたどしいので、英語でコミュニケーションをとらざる得ない。息子の友達もオーストラリア人が圧倒的に多いので、会話は英語だ。
しかも信じられないことに、嫁さんのお母さんが日本語の勉強を始めた。70歳である。60歳の私が弱音を吐くわけには行かなくなった。
「もう一度、がんばろう。何とかして最低限のコミュニケーションがとれるレベルを目指そう。そうしないと親戚とも会話ができない」
そう決心して、日常英会話の本とCDを買ってきた。今度は英会話をしなければならない必然性が高いので、うまく行くかもしれない。
嫁さんのお母さんと競争だ。
そんな望みにかけて最後のトライをすることにした。
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