評論

(19.3.6)これは無理筋だ 駅前自転車駐輪場

2007_03040037  碁や将棋の世界でよく使われる用語に「無理筋」という言葉がある。誰が見ても成功しそうもない手筋を無理やり継続しているよう場合に使用される。プロはほとんどこうした手筋を使わない。素人で強引なタイプの人がこの手筋を使う。

 私が、「無理筋」と思っているのは、ジャスコの駅前の駐輪場の整備についてである。昨今ジャスコの前の街路灯に「鎌取駅第6自転車駐車場利用申し込みのお知らせ」という、たて看板が立てられている。3月5日から12日の間が、駐輪場の利用申し込み期間で、利用台数は395台だそうだ。

 私が気にしたのは、登録台数395台という数である。現在ジャスコの前に止めてある自転車の数はどう見ても395台より多い。私は試みに数えてみた。5日の午後4時ごろの台数であるから、サラリーマンが通勤に使用している数と、ジャスコのお客の数にほぼ等しい。

 取りあえず、片側半分を数えてみたが、数が400台になったところで止めた。片側だけでも400台以上ある。両方だと最低で800台、数え切れなかった分を推定で入れると約1000台の自転車が止めてあった。

 「うぅーん、これは数が合わない
 駐輪場を使用できなくなった約600台の自転車はどうなるのか。私の経験でも分かるが、通勤に自転車を利用する最大の理由は時間短縮のためである。歩きより確実に3倍は早い。サラリーマンは時間に追われている。どう考えても自転車通勤を徒歩に変える人は少ない。

えぇ、何でここに止めちゃいけないの
ここは放置自転車の駐車禁止区域ですので、止める場合は正式な手続きをとってください
何いってんの、これは放置自転車じゃないよ。れっきとした私の自転車だ
いえ、条例で放置自転車ということになったので
そんなこと勝手に決められちゃ困るよ。あんた辞書を見たことないの。私が放置してないのだから放置自転車じゃない

 喧嘩をしているのが目に見えるようだ。

NHK千葉放送局 19年4月1日 朝のニュース
ここ鎌取駅頭では、前代未聞の現象が発生しています。通勤客全員が、片手に広辞苑を持ち、市の担当者と口角泡を飛ばし激論をしています。乗客の1人に聞いてみました。
市はおかしい。放置という言葉を勝手に拡大解釈した。これでは広辞苑がかわいそうだ。広辞苑が修正されない限り、駐輪場はみとめられない』。鎌取駅頭から生中継でした。」

 それにしてもなぜ395台なのかと考えてみた。おそらく駐輪場に設置される駐輪機について、「Xcmの幅をあけて設置」というような基準があり、設置場所との関係で、計算上そうなったのだと思う。

 現在行政が自転車対策で悩んでいるのはよく知っている。おゆみ野四季の道にも「盗難にあい、その結果放置されている自転車」が数多くあるのはこのブログでも紹介している。回収は緑土木事務所が行っているが、その人件費だけでも馬鹿にならない。

 だが、しかしそれでもこの395台という数字は実態をあまりに無視している。行政側がいくら熱心に放置自転車の追放を叫んでも、禁止区域以外に自転車が止められるのは確実だ。今はジャスコの前だけだが、今後は四季の道の禁止区域以外の場所に自転車が移動するだけだ。

私は、この駐輪場対策はまったく「無理筋」だと思う。実態をあまりに無視した対策は、結局守られることはない。

(19.3.9追加)

I さんからジャスコが別途駐輪場を整備している話を聞いた。見てみると確かにジャスコも駐輪場を作っている。2時間までは無料だが、それ以上は有料とするらしい。
 さすがにジャスコはお客のことをよく考えている。公的な駐輪場だけでは不足することを知っていた。

 ジャスコに今後も自転車でいけそうだと分かってほっとした。ただ、現状では何台分整備するのか分からない。しばらく様子を見ておこう。

 ただし通勤客の駐輪場については問題が残されたままだと思う。

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(19.2.16)惜しい方がなくなられた 宮元巡査部長

 惜しい方がなくなられた。東部東上線の線路内に入った女性を助けようとしてなくなった、宮本巡査部長のことである。
安倍首相も弔問に訪れ、警視庁は宮本巡査部長を警部に2階級特進して、その功績を多とした。

 自殺をしようとした女性が生きながらえ、一方助けようとした宮本巡査部長がお亡くなりになるという痛ましさに胸が打たれる。
宮本巡査部長は街のおまわりさんとして親しまれており、地元からも多数の弔問客が参列し、最後のお別れをしたという。

 同期の代表が「千の風になって見守ってください」とお別れの言葉を述べ、奥さんは「おとうさんの行動を、私たちは誇りにおもいます」と最後の挨拶をされた。

 それにしても、宮本巡査部長の壮烈な最期を見るにつけ、私たちの生活はこうした誠実で地味で、そして勇気ある人に支えられていたことが分かる。
それが命を懸けることほどのことだったのか」などといってはいけない。命を懸けても誠実に自分が果たすべき仕事を全うしようとしたのだ。

 日本という国の本当の基盤を支えているのは、地位ある人や、お金のある人ではなく、「男はつらいよ」の「虎屋のおいちゃんやおばちゃん」でありそして「博やさくら」のような人なのだ。

 一時期、脚光をあびた堀江氏や村上氏が、多くの日本人にとって違和感のある存在だったのも、日本人の琴線に触れたからに他ならない。
この国はただひたすらにまじめな庶民が支える国なのだ。

 今、この国を支えてきた、地位とは無縁でも誠実に生きていた一人の庶民が旅立ってしまった。
私は宮本巡査部長がなくなられたことを知ったとき、涙がながれ、そして嗚咽した。

 60歳の人間はめったに泣かない。しかし今回は宮本巡査部長のために思いっきり泣いていいと思った。

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(19.2.15)予測があたらない コーヒー缶を捨てる人は誰か

 私は予測が好きだ。しかしなかなかあたらない。金日成が死亡したときは、北朝鮮の崩壊が数年内に起こると予測したが、いまだに金正日は健在だし、イラク戦争は1年以内に片付くと思ったがすでに4年目に入っている。中国の崩壊は早いと思ったがそんな兆しはどこにもない。息子から
親父の予測は希望的観測が入りすぎるんだ」とたしなめられた。
 
 昔、株の投資を行っていたときにはすぐにバブルがはじけ、外貨預金は元本割れになり、サッカーのTOTOでは1億円を狙ったが、誰でも当たる数千円以上にあたったためしがない。これも息子に
ようするに、欲が深いんですな」なんて言われてしまった。

 だから、予測という作業にすっかり自信をなくしていたが、今回はなぜか自信があった。この人は誰かという予測である。

 四季の道の清掃活動をしていると、毎回同じパターンのゴミが落ちている。同じベンチの上か下に一個のコーヒー缶が置かれており、中に必ず3本程度のタバコの吸殻が入っている。時間帯は1時から3時ごろまでの間に置かれる。この人物なら絶対あたると思って予測したのだ。

  • こうした同一の行動パターンを繰り返す人間は、年長者の特色で若者ではない。
  • また時間帯から見て定年退職者か長期離職者で、昼間散歩を日課としているものだ。
  • コーヒーとタバコの愛用者なので、あまり健康的とはいえない。特にタバコの吸殻をコーヒー缶に入れるのは男性のヘビースモーカーの特色なので、顔に脂肪がたまり、下腹が出ている男だろう。
  • コーヒー缶を必ず放置していくのは、自分で片付ける習慣がなかったからで、大会社か役所の中間管理職を歴任した可能性が高く、性格的には少し横柄だ
  • 散歩の時間帯が1時から3時なのは夜型人間だからだろう。夜が遅いため、朝の目覚めが遅くなっている可能性が高い。おそらく不眠症に悩まされている。

 この推定は確かなものと自信満々だったので、そうした人物がベンチに座っているときは注意深く観察していたが、ある日、とうとうコーヒー缶を放置している現場に出くわしてしまった。

 信じられないことに、年齢40歳位の口ひげを生やした偉丈夫で、筋肉質の体格をしており腹など出ていなかった。
えぇ、うそだろう」、思わず叫びそうになった。

 私はあっけにとられてその人物を見ていたのだが、相手から見たらゴミ袋を抱えた変なおっさんが、目の前に立ってじっとにらみつけているように見えたに違いない。
 「なんだこいつ」という顔で睨み返されてしまった。

 なぜこんなに予測が外れるのか分からない。どうも想像力が過剰になって自家中毒を起こしているような気がする。もう少し冷静な判断力を養わないと立派な老人になれそうにないと反省した。

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(19.2.3)老人は荒野をめざす

なぜ国家は衰亡するのか Book なぜ国家は衰亡するのか

著者:中西 輝政
販売元:PHP研究所
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荒野をめざすのは若者だけではない。今、老人こそ荒野をめざすのだ。なぜか。

現在、中高年と言われている人たちは、若く健康だ。登山をすると分かるが、どの山も中高年であふれている。たまに若者がいると「若いのに感心なことだ」と褒められたりする。水泳教室もダンス教室も海外旅行も中高年が圧倒的に多い。時間とお金と意欲にあふれた中高年が若者に負けまいとエネルギーを爆発させている。 

中高年が「若く健康」であることは悪いことではない。国家財政の圧迫要因である医療費の圧縮に貢献するし、健康は家庭を支える基礎となる。

しかし、中高年が個人レベルでは最高の幸せな時間が経過しているのに、一方社会全体では暗く暗雲が立ち込めている。個人は幸せだが社会は不幸だ。国家財政は借金まみれだし、個人生活に目を向ければ、妻が夫を切断したり、いじめを苦に若者が自殺をしたりしている。会社では「ぺこちゃん」が毎日頭を下げている。

そして都市は薄汚れ、私の愛する「四季の道」はゴミであふれてしまった。

実は社会の秩序を維持していくことは、大変なことなのだ。すべてが消費者の世界が成り立たないように、すべてが享楽者の世界も成り立たない。誰かが秩序を維持する努力をしないと、その社会は急激に崩れ、崩壊する。

かつてベネチアは約1000年間都市国家として反映したが、なぜ1000年間も命脈を保てたかを中西輝政氏が「なぜ国家は衰亡するのか」の中で紹介していた。

ベニチアの引退した国会議員の最後の仕事は、次代を背負うセミナリオの若者に、自分とベネチアが経験した過去の歴史を知恵として伝えることで、ある元国会議員はリュウマチをやんだ身体を引きずりながら「国家が私に与えた最後の義務はなんと過酷なのか」と繰言を述べながらも黙々と国家の義務を果たしていたと言う

一つの社会を維持していくためには、こうした老人の最後の踏ん張りが必要であり、それなくして社会は維持できない。老人が個人レベルの享楽にふけっていてはその社会は確実に衰退する。若者にない老人の唯一の能力はその欲望を制御できることだ。    

60歳になり、定年退職して自由な時間がふんだんに持てたとき、私はこの社会の崩壊を食い止めるため、余裕の時間は社会にお返しようと決心した。たとえ些細なことでも「四季の道」を毎日清掃し、繰り返し捨てられるマクドナルドの紙くずを片付け、再度捨てられるまでの一時でもこの道を美しく保っておくことが私の責務のように思われた。

妻は「すぐにまた捨てられるから無駄だ」と言い、ある人は「それは役所の仕事だ」と言ったが、それが社会を健全に保たせるための、私のできるささやかな貢献と思われたのだ。

誰かが支えなければならないなら私が支えよう

東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい」と言ったのは宮沢賢治だが、「そういう人になる」のは実は老人なのだ。

老人は荒野をめざさなければいけない。個人の享楽ではなく、いままで支えてくれた社会にいささかなりともお返しをするため、荒野をめざすのだ。

もしそうしなければ社会は確実に崩壊するのだから。

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(19.1.26)「公」と「私」について

 昨日のブログ「僕は怒ったぞ」に2名の方からコメントをいただきました。こんなに熱心なコメントをいただいたのは初めてなので恐縮しております。
 特にボビーさんのコメントは大部なもので、「数年前NHKスペシャルで犯罪発生率が急上昇している町として取り上げられ、その一因が両刃の剣・遊歩道にあるとまで全国放送されたにも関わらず未だ具体的施策は皆無です」と憤慨されておられました(詳細は「僕は怒ったぞ」のコメントをクリックしてください)。

 コメントに対する回答として、私の「」と「」の考え方を記載します。もっとも、大上段に構えた議論はとてもできないので、あくまで都市の美化に限定した議論です。
 私の娘の友達が現在ドイツに在住していますが、この人から面白い話を聞きました。「ドイツの都市はどこに行っても美しく、ベランダは花で飾られ、公園にはゴミを捨てる人は皆無だけれど、一方家の中はまったく別。犬や猫の毛が飛び交い、絨毯は汚れ放題で、とても日本人には耐えられない」とのことでした。
 一方日本はこの反対で、家の中はきれいに清掃され、絨毯に埃りはなく、美しい花が飾られているけれど、一歩外に出ると道路がゴミ箱がわりに使用されているのが実情です。

 ドイツでは「」に重点が置かれ、日本では「」に重点が置かれていると言えます。これはどちらか一方に価値があるのではなく、あくまでもバランスの問題で、今後、ドイツではより「」に、日本ではより「」に軸足をシフトさせる必要性を感じます。
 「」と「」に対応する道徳的用語は「規律」と「自由」ですが、極端な「規律」は北朝鮮の世界に、また極端な「自由」はアメリカ映画で描く「アメリカは自由の国だ。だから俺が何をしようとかってだ」と言って銃を乱射する若者の世界、いわばジャングルの掟の世界になります。

 日本が「」に傾きすぎる原因は、第二次世界大戦のトラウマにあり、今でも「国家」とか「」と言う言葉にパブロフの犬のように、拒絶反応を示す人が多くいますが、「」も「」も所詮はバランスの問題だと言うことを認識しない間違った態度だと思っています。

 「」から「」への軸足のシフトのためには、教育と実践が必要ですが、幸いに現安倍総理は「美しい国、日本」を作るためにも「」に重点を置いた「教育改革」を行うといっています。一般的に日本人は政治家が言うことに対しシニカルに構える傾向がありますが、政治家が真剣に行動しようとしているときはそれを応援するのが正しい態度だと思います。

 私は教育とは無関係の人間ですので、応援はもっぱら実践になります。安倍総理の言う「美しい国、日本」は私の実践する「美しい街、おゆみ野」「美しい道、四季の道」に対応します。自分のできる範囲内で努力するつもりです。
 かつてケネディーが「国が諸君に何をしてくれるかと問うてはならない。諸君が国のために何ができるか問うてほしい」といいました。これは古今東西を問わない至言だと思っています。

 二日間にわたり、少し肩に力を入れすぎて書いてしまいました。

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