(19.7.7)大覚寺山(だいかくじやま)古墳
私は古墳を見るのがとても好きである。何か古代のロマンに誘われるような気がして、かつて関西に住んでいた頃、仁徳天皇陵を見に行ったことがある。
日本最大の陵墓といわれる仁徳陵は、遠くから見ると小山であり、近くで見ると森で、私がイメージしていた航空写真の陵墓とまったく違ったのにびっくりした。
「どうも古墳は空から見ないと、古墳と言うことすら分からない。これじゃ単なる森だ」そお思ったのを覚えている。
その点、埼玉のさきたま古墳群は公園として整備され、古墳を覆っていた樹木は切り払われ、うれしい事に頂上まで登ることができた。
「なるほど、これが古墳か」と頂上から周りを睥睨したのを覚えている。
権力者も昔、この古墳の上に立って、自らの領地を眺めていたはずだ。
「うむ、民の生活は豊かじゃ。家から食事の煙がたなびいておる」
しかし、ここおゆみ野に越してきて14年にもなるのに、千葉の古墳については、まったく知識がなかった。
「千葉に古墳なんてあるの」という感覚だったが、友達のKさんから「おゆみ野風土記」を借りて読んで認識を新たにした。
特に千葉市埋蔵文化財センターの近くに、千葉市で最大の「大覚寺山(だいかくじやま)古墳」があることを知って、先日出かけてきた。京成電鉄学園前駅から徒歩で15分程度の場所にあり、私の家からも自転車で20分程度の距離である
大覚寺山古墳は全長66mの前方後円墳で、5世紀前半に建造されたと言われている。かつて村田川流域に勢力を張った菊間の国造(くにのみやつこ)の墓域と言われるが、未発掘なためまだ明確なことは分からない。
菊間の国造は、この地域きっての豪族で、昔は菊間の国と言われた。
行って見るとそばに小さな公園があり、そこから登っていくと古墳の入り口にたどり着く。一応古墳として整備されており、樹木も切り払われて、墳墓の形が分かるようになっている。
しかし残念なことに、古墳としての魅力に乏しい。未発掘のせいもあるが、よく古墳公園にあるような埴輪もないし、展示場もない。
ただ、芝生の丘があるという状況で、しかも周りが高い木々に囲まれているため見晴らしも良くない。
かつては、南方の村田川方面に開けた、見晴らしの良い高台だったはずで、自分たちの領地を見渡せるこの場所に墓域を作ったのだと思われる。しかしそれを追体験することはできなかった
ところで国造(くにのみやつこ)とは不思議な言葉だ。一応は「律令体制が固まる前の、豪族に与えられた姓(かばね)」という説明がされているが、それ以上のニュアンスを感ずる。
大和朝廷の使「菊間の長、あなたに国造という称号を与えよう」
菊間の豪族「称号とはなんだ、あんたからそんなものをもらういわれはない。第一、大和の国なんて俺は知らん」
大和朝廷の使「いやいや、これは失礼した。あなたが、この地を収めている長だと、私たちは認めると言うことだ。この国を造ったのはあなたで、あんたが大将だと言う意味だ」
菊間の豪族「それなら、まあ、そお呼んでもいい」
大和朝廷の苦労がしのばれる言葉だ。
今回は、大覚寺山古墳の写真を掲載します。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/1975?authkey=5lVvyH7qJbM
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