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(19.4.8)失敗記 その6

 これは本当の話である。私は冗談が多いので、冗談と真実との境目がはっきりしないが、実際シナリオライターになろうとして、足掛け4年間奮闘努力した。
 そして、プロになれる一歩手前で挫折した。45歳前後の話で、約15年ほど前になる。

(シナリオライターの巻)

  東京にはいろいろな教室がある。放送作家教室もその一つで、プロのシナリオライターを養成するため、現役のシナリオライターが指導に当たっていた。
 金子成人氏や、布施博一氏や、竹内日出男氏といった日本のシナリオ界を代表する人たちがかわるがわる教師になって指導をしていた。
 
 当時の放送業界は、バブルがはじけた後もなお収益を十分確保しており、テレビドラマ制作に対し十分に資金をつぎ込むことができていたらしい。そのため、新人のシナリオライターの発掘が急務だったのである。

 生徒数は正確に何人か分からない。しかし常時300人程度はいたと思う。シナリオ教室はいつも満員だった。ここで生徒はプロのシナリオライターの指導を受けながら、4百字詰め原稿用紙で60枚程度の作品を、年間2本作成することが義務づけられていた。

 そして、年に1回、教室内のコンテストがおこなわれ、私は1989年度のコンテストで、優秀賞を取った。題名は「市民ランナー1990」と言う。
 当時から私はマラソンが趣味で、よく神宮外苑でトレーニングをしていた。その経験と、私が勤務していた金融機関の渉外担当の経験をミックスして、うだつのあがらない職員が、マラソンランナーとして成功していく話を作ったのである。自分史に近い。

 よくシナリオ世界では、一本だけはすばらしい作品が書けるという。自分史を書くと、個性的で他人から見て大変興味のある話が書けるからだ。
 ビギナーズラックとも言う。私の場合それだったのかもしれない。

 たまたまこのコンテストの審査委員に、日テレのディレクターがいた。私の作品を読んで、自分が担当しているテレビドラマで放送してもいいと言う話が持ち上がった。

 私は舞い上がってしまった。
金融機関の仕事はアキアキだ。ようやく私も自由業者になれる。小椋佳みたいだ
 その後、日テレには何回足を運んだか分からない。金融機関の事務室と違っていつも騒がしく、ディレクターも何かいくつもの仕事を抱えて、集中できないような雰囲気だった。

山崎さん、私の持っている番組は2時間ものなので、2時間になるように書き直してくれませんか
 私は、1時間ものを、2時間物にして持っていった。
山崎さん、この題〔市民ランナー 1990〕じゃだめだな、題名を変えてくれませんか
 私は題名を〔友よ、風に向かって走れ〕に代えて持っていった。
山崎さん、すまん、時間がなかったので、まだ修正版を読んでない。次回までに読んでおくから

 私は放送業界の実情に無知だったが、当時私の置かれている立場は、プロ野球の二軍選手の立場とよく似ていた。レギュラー選手が怪我や故障で戦列を離れたときに、急遽ピンチヒッターで出てくる選手だ。
 ディレクターはもしもに備えて、単に時間延ばしをしていたに過ぎない。しかし私の場合、いくら待っても出番が回ってこなかった。
 このような状態が、ほぼ1年位続いた。

 その間、私は何本かのシナリオを書き、いくつかのコンテストで、最終審査まで行ったが、いづれもその段階で落ちた。
 この世界は、入選も落選も紙一重で、何かの偶然で入選したり落選したりするのだ。

 だから、もっとも確実な方法は、すでに社会的評価の定まった、シナリオライターを師として、そのライターの引きでデビューを果たすことだった。いわば徒弟制度のようなものだ。

 しかし、45歳を過ぎて、徒弟になるのはつらい。その後もシナリオを書いていたが、だんだん情熱は薄れ、いつの間にか書かなくなってしまった。
まあ、シナリオなんて書かなくても、今の仕事で生きていける
 
 こうしてシナリオライターになる夢は破れた。

 だが、定年後、信じられないような時代が始まった。ブログと言うシステムが普及し、私は毎日ブログを書く生活をはじめた。書いても収入にならないことを除けば、かつて夢見たシナリオライターの生活そのものだ。

 うぅーん、だから、60歳になり、夢が実現したと喜ぼう。

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